海外旅行・観光情報の「地球の歩き方」TOP > 特派員ブログ > ヨーロッパ  > イタリア/ジェノバ特派員ブログ

イタリア/ジェノバ特派員ブログ 浅井まき

イタリア・ジェノバ特派員が現地からヨーロッパ地域に至るまで、旅行・観光・食事などの現地最新情報をお伝えします。


みなさまこんにちは。
日本ではとても冷え込む週末となっているようですね。ここジェノバは比較的暖かい日が続いています。(私の論文はなんとかなりそうです…)


現在、リグーリア州の西側にある街サンレモでは、イタリアの紅白歌合戦のような一大イベント、サンレモ音楽祭(Festival di Sanremo)が開催されています。
今年で69回目を迎える歴史ある音楽コンテストで、今年は24組のアーティストが参加し、優勝を争っています。今回はこのサンレモ音楽祭について、そもそもどういうものなのか、そして開催地サンレモについて、お話したいと思います。
Pic.34-1.JPG
(音楽祭会場のサンレモ・アリストン劇場。すごい人出です)


イタリア音楽の最高賞

サンレモ音楽祭は毎年2~3月に行われており、その始まりは1951年に遡ります。サンレモ音楽祭優勝者に与えられる”サンレモの獅子像”はイタリアの大衆音楽界における最高の賞であり、歌手と作曲者にとって非常に栄誉あるものです。本来は作曲家のためのコンテストで、条件はイタリア人(少なくとも一人を含む)の作曲者による、イタリア語の未発表歌曲であるということ。そのため、初期には一人の歌手が複数の楽曲を歌うこともありました。現在ではどちらかというと歌手のコンテストに近い形となっています。

Pic.34-2.JPG
音楽祭は5日間にわたって行われ、参加歌手たちは合計4回、アレンジを変えたりゲストを招いたりしながら同じ曲を歌います。こうした目に見える評価基準のないコンテストにおいてイタリア人というのは非常に慎重な人々で、何日もかけて最も優れた楽曲を選ぶのです(ミスコンなども同様で、ミス・イタリアには敗者復活戦もあるという噂)。そのため、演奏順の不平等が緩和されるほか、初日には好評であっても飽きられてしまう曲があったり、反対に徐々に評価を上げていく楽曲があったりして最後まで優勝の行方はわからない、というのが面白さでもあります。


審査は専門家によるジャッジに加えて視聴者投票も加味されます。一般視聴者は投票時間中、固定電話やスマートフォンから好きな歌曲に1夜で最大5回投票することが可能です。


毎回国内外から豪華なゲストが登場するのも醍醐味です。昨年にはイタリアの有名歌手ズッケロ(Zucchero)のパートナーとして布袋寅安さんも登場しました。

Pic.34-3.jpg
(ドメニコ・モドゥーニョ。’58年の音楽祭にて。<Wikipediaより引用>。パブリックドメイン)


サンレモ音楽祭優勝曲の中には世界的な大ヒットとなった曲も数多く存在し、その筆頭が1958年優勝のドメニコ・モドゥーニョ(Domenico Modugno)による”Nel blu dipinto di blu”でしょう。このタイトルだとピンとこないかもしれませんが、「ヴォラーレ」という邦題はよく知られているところです。ジプシー・キングスによるカバー版がアサヒビールのCMでも流れているので日本でもかなり馴染みのある曲ですね。


また、受賞こそ逃していますが世界的な成功をおさめた楽曲としてはアンドレア・ボチェッリ(Andrea Bocelli)が1995年の音楽祭で披露したCon te partiròがあります。日本ではサラ・ブライトマンとのデュエット版である「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」が有名です。この名曲を押さえて各賞を総なめにしたのがジョルジャ(Giorgia)の”Come saprei”なので、気になる方はぜひ検索してみてください。





イタリア音楽の聖地であり風光明媚なリゾート都市・サンレモ

音楽祭が行われるサンレモはジェノバから西へ電車で約2時間、フランスのニースからのほうが近い位置にあるインペリア県の街です。美しい海岸線の続く地方で、夏場にはリゾート地として多くの観光客が訪れます。
Pic.34-4.jpg
音楽祭がはじまるきっかけは、シーズンオフの観光振興としての試みでした。そのため、真冬の2月ごろに行われているのです。
当初はカジノで行われていましたが、音楽祭の人気によってより適した場所が必要となり、1977年以降は市内にあるアリストン劇場で開催されています。

会場では一般観覧も可能で、イタリアの旅行会社がツアーを組んだりもしています。多数の歌手や国内外の豪華ゲストが登場する舞台なので、チケットを個人で手配するのはなかなか難しいかもしれません。また、ドレスコードがあるようで、観客席を見ると男性は必ずネクタイとジャケットを着用しています。
Pic.34-5.jpg
Pic.34-6.JPG
サンレモの街中にはリグーリア地方らしい、カラフルで可愛らしい建物が並んでいます。サンレモの海岸はビーチよりもヨットハーバーが主ですが、隣町のボルディゲーラには素晴らしいビーチがあります。フランス国境まですぐという立地で、ニースやモナコにも日帰りできる場所です。夏場のリゾート旅行にも、2月のサンレモ音楽祭見学にもおすすめの街です。





Pic.34-7.JPG
(“モランディ橋”の現在)


さて、昨日2月8日はジェノバの人々にとって特別な日となりました。昨年8月14日に43人が犠牲となった高速道路の高架橋崩落事故、あの事故のあった橋は未だ残されていたのですが、新しい橋の建設のためいよいよ取り壊しが始まりました。

「リグーリア州は変わった形をしています。薄く長く、まるで橋のように」
サンレモ音楽祭司会のクラウディオ・バリオーニ(Claudio Baglioni)はこう述べてこのことを語りました。
新しい橋はジェノバの新たなシンボルとなるでしょう。

音楽祭の様子はRaiによるストリーミング(Rai play)、またはYoutubeのRai公式チャンネルによる配信で見ることができます。

2019年2月 9日

あけましておめでとうございます。
前回から少し間があいてしまいました。(実はただいま修士論文と格闘中です)


さて、今日2019年1月11日はジェノバにとって特別な日でした。
今からちょうど20年前、1999年1月11日、ジェノバの生んだ最も偉大な”カンタウトーレ”(≒シンガーソングライター)の一人、ファブリツィオ・デ・アンドレ(Fabrizio De André)がこの世を去りました。60年代に頭角を顕し、ジェノバ、そしてイタリア音楽全盛の時代をつくりあげた功労者ですが、彼と彼の楽曲は没後20年経っても色あせず、当時のファンのみならず若者の間でも多くの人に愛され続けています。こと出身地のジェノバでは当然全員”履修済み”。街を歩けば必ず耳にするほどよく流れています。20回忌の今日ドゥカーレ宮殿で行われたメモリアルイベントには平日にもかかわらず長蛇の列ができていました。

(参照)”デ・アンドレとその楽曲を求め、大行列”(2019年1月12日付、Il Secolo XIX紙web版)

デ・アンドレはなぜ今でもこれほど愛されているのでしょうか。




“だめんず”だった青年時代

Pic.33-1.JPG
(ペッリの街並み)

Pic.33-2.JPG
(出生地のデ・ニコライ通りに設けられた記念プレート)


デ・アンドレが生まれたのはジェノバの西部・ペッリ。裕福な家庭に生まれ、企業経営者で政治家の父に優秀な兄(のちに著名な弁護士となる)をもちますが、自身は勉学や出世に関心が持てず、兄と同じように大学の法学部に入るものの中退。この頃からアルコール依存ぎみで、バールなどの集まるジェノバの路地裏でふらふらすることも多かったようです。
とはいえ、この時期にのちの音楽性を形成する様々なジャンルの音楽や文学、思想を吸収していきます。





ミュージシャンとしての船出、人気者へ

Pic.33-3.JPG
(当時多くのミュージシャンも集っていたジェノバの路地裏)


大学を中退して音楽の道に進んだデ・アンドレですが、1961年に出した最初のアルバムは大きな成功をおさめず、全国区での知名度はまだまだ。しばらくは父親の経営する教育機関で勤務していました。この時期7歳年上の女性と結婚し、長男クリスティアーノ(現在”カンタウトーレ”として活躍)を授かります。
彼の名を一気に高めることとなったのはオリジナル楽曲”Canzone di Marinella”(マリネッラの歌)の大ヒットでした。この曲をイタリア随一の歌姫であるミーナ(Mina)が歌ったことで爆発的なヒットを飛ばし、作曲者のデ・アンドレも一躍全国区のアーティストとなりました。
ところが、若い頃のデ・アンドレはライブで大勢の観客を前にした演奏がとても苦手で、開演前にはウイスキーを飲んで緊張をほぐし、客席を真っ暗にしなければ舞台に立つことができなかったそうです。この弱点を克服するのには長い年月がかかりましたが、晩年にはステージでのパフォーマンスもリラックスした表情でこなすようになりました。





当局の監視、不倫、誘拐…波乱万丈な私生活

私生活ではなかなか波乱含みの人生を送ってきた人物です。70年代、東西冷戦中の時代で(特にイタリアは当時最大野党が共産党であった)、彼自身は政治活動を行っていないもののリバタリアニズムの影響を受けた歌詞を書いていたことや、社会主義思想に近い人々との交流があったことからイタリア政府当局の監視対象とされ、何度か聴取も受けています。
歌手のドリ・ゲッツィ(Dori Ghezzi)との不倫が報じられたのも同時期です。最初の妻とは離婚し、その後1989年にドリ・ゲッツィと再婚を果たしています。
マスコミの追求から逃れるようにサルデーニャ島の田舎に家を買って暮らし始めたデ・アンドレでしたが、1979年8月、一緒にいたドリ・ゲッツィとともに左派の過激派グループによって誘拐され、4か月に及ぶ監禁生活を強いられることとなりました。父親が身代金を支払ったことで解放されますが、彼はこのときの経験を”Hotel Supramonte”(山上のホテル)という楽曲にて表現しました。





ジェノバを愛し、ジェノバに愛されるデ・アンドレ

Pic.33-4.JPG
(ボッカダッセもデ・アンドレゆかりの地)
Pic.33-6.JPG
(ジェノバ方言でCrêuzaと呼ばれる狭い坂道)


1999年に亡くなる直前まで精力的に音楽活動をしていたデ・アンドレ。初期から”La Città vecchia”(古き都)、”Via del Campo”(カンポ通り)などジェノバの情景を歌った楽曲を多く書いています。後期には”Crêuza de mä”(海の小路)をはじめとするジェノバ方言を取り入れた独特な歌曲も多く手掛け、ジェノバ方言の再評価の機運を醸成しました。どの曲も言葉の採用や表現の妙が素晴らしく、何年経っても色あせない美しい歌詞が特徴です。イタリア人に彼のことを訪ねれば、「彼は偉大な詩人だよ」とよく言われます。アコースティックギターを基本とした素朴でゆったりした音楽がその詞と絶妙にマッチしていて、まさにジェノバの街そのもののよう。個人的なおすすめ曲は上記のほかに”Il pescatore”(漁師)という曲です。


Youtubeの公式チャンネルにてデ・アンドレの最後のライブの映像が一部公開されていますので、ジェノバを訪れる際には彼の音楽を聴いてみるのがお勧め。ジェノバの街がいっそう趣深く見えるはずです。


2019年1月12日

皆さまメリークリスマス!
ジェノバの街にも「アウグーリ!(おめでとう)」という言葉が飛び交い、お祭りムード真っただ中です。
さて、私はジェノバのあるリグーリア州を飛び出しお隣のピエモンテ州にお邪魔してきました。今回の記事ではピエモンテ州アレッサンドリア県に属する郊外の街ノーヴィ・リーグレをご紹介します。
Pic.32-1.JPG

小さな宝石箱のような美しい街

Pic.32-3.JPG
(お洒落で素朴な街並)


ジェノバからトリノ行きの電車で約45分。トリノからは1時間少々なので、丁度ジェノバとトリノの中間あたりに位置するノーヴィ・リーグレ。人口3万人に満たない小さな街です。
駅を降りてすぐに旧市街に入ります。素朴で可愛らしい建物が所狭しと軒を連ねる街並みは趣があってイタリアらしい雰囲気です。しかし、少し散策すれば素朴な風景の中にぽつりぽつりと豪奢な宮殿が姿を現します。入り口に出ている看板を見ると、「アドルノ宮」「ドゥラッツォ宮」「スピノラ宮」…どれもジェノバでよく目にする名前です。ピエモンテなのに、なぜでしょう。





ピエモンテの”ジェノバ都市”?異色の歴史

現在はピエモンテ州に属するノーヴィ・リーグレですが、「リーグレ(=リグーリアの)」という語がさすとおり、ジェノバの影響が非常に強かった街です。
歴史をさかのぼってみると、ミラノやジェノバなど強国の狭間にあってあちこちから支配を受けてきたことがわかります。そしてジェノバ共和国の領土となったのが16世紀前半のこと。ジェノバ支配下において、ノーヴィ・リーグレは重要な発展を遂げることとなります。
Pic.32-4.JPG
(手形取引市場が置かれていた建物の一つ)


17世紀初め、莫大な富をもって当時のヨーロッパの金融界で絶大な影響力を行使する立場にあったジェノバ人たちは手形交換の中心市場を自らの統治下に引き入れようと画策します。こうしてノーヴィ・リーグレに市場が置かれたのが1622年。ここから17世紀末にかけて小さなノーヴィ・リーグレの街はヨーロッパ中のカネの流れを支える中心地として機能しました。





出張版・ロッリの邸宅群!

Pic.32-5.JPG
(ネグローニ宮(右)のフレスコ装飾が見事)


ジェノバ支配下で手形の中心市場が置かれていたこともあって、ノーヴィ・リーグレの街は大きく発展し活気づきました。当然首都ジェノバからも多くの有力者が屋敷を構え、足しげく通います。そのため、街の中心部にはジェノバ貴族の邸宅が数多く残っているのです。
ジェノバ市内で「ロッリの邸宅群」といわれる豪華絢爛な邸宅を建てていた当時のジェノバ人ですから、ノーヴィ・リーグレでも負けず劣らずの邸宅を建てました。まさに出張版「ロッリ」といった様相ですが、素朴な街並みとも齟齬のない上品で趣ある館の数々です。とくに旧市街の中心に位置するネグローニ宮(Palazzo Negroni)は鮮やかなフレスコ画に彩られた外装が目を引きます。


徒歩でも半日程度でぐるりと一周できる小さな街。静かで美しい郊外の街でのんびり過ごすにはお勧めです。
Pic.32-6.JPG
ジェノバより、よいクリスマスを!


2018年12月25日
2018年12月17日
2018年12月 9日
2018年11月25日
2018年11月18日
⇒すべての記事を見る

イタリア旅行 旅スケジュール

旅行者の作る、新着!旅スケジュールをご紹介します。 ■イタリアの旅行記・口コミ「旅スケ」へ

ヨーロッパ特派員ブログ一覧

アイスランド/レイキャヴィークアイルランド/ゴールウェイイギリス/イーリーイギリス/エディンバライギリス/カーディフイギリス/ギルフォードイギリス/グラスゴーイギリス/ケンダルイギリス/ケンブリッジイギリス/コッツウォルズイギリス/ヒースローイギリス/ブリストルイギリス/ベルファストイギリス/ヨークイギリス/ロンドンイギリス/ロンドン2イギリス/ロンドン3イギリス/ロンドン4イタリア/アンコーナイタリア/アンドリアイタリア/シチリア島イタリア/ジェノバイタリア/トリノイタリア/ナポリイタリア/ナポリ2イタリア/パルマイタリア/フィレンツェイタリア/ボローニャイタリア/ミラノイタリア/ミラノ2イタリア/ラ・スペツィアイタリア/ローマイタリア/ローマ2ウクライナ/オデッサエストニア/タリンエストニア/タルツオランダ/アイントホーフェンオランダ/アムステルダムオランダ/デンボスオランダ/ライデンオーストリア/ウィーンオーストリア/チロルオーストリア/リンツキプロス/ニコシアギリシア/パロス島ギリシャ/アテネクロアチア/コルチュラ島クロアチア/ザグレブクロアチア/ドゥブロヴニクジョージア/トビリシスイス/アッペンツェルスイス/チューリヒスイス/ベルンスウェーデン/ストックホルムスペイン/イビサ島スペイン/バルセロナスペイン/バルセロナ2スペイン/バレンシアスペイン/バレンシア2スペイン/ビトリアスペイン/ビルバオスペイン/マドリッドスペイン/マドリッド2スペイン/レオンスロヴェニア/リュブリャナセルビア/ベオグラードチェコ/ブルノチェコ/プラハチェコ/プラハ2デンマーク/コペンハーゲンドイツ/ケルンドイツ/ケルン2ドイツ/シュタインバッハドイツ/デュイスブルクドイツ/デュッセルドルフドイツ/ハノーファードイツ/ハンブルクドイツ/フライブルクドイツ/フランクフルトドイツ/ブレーメンドイツ/ベルリンドイツ/ボンドイツ/ミュンヘンドイツ/ミュンヘン2ドイツ/ミンデンドイツ/ライプツィヒドイツ/レーゲンスブルクドイツ/ワイマールノルウェー/オスロノルウェー/オスロ2ノルウェー/オスロ3ノルウェー/ベルゲンハンガリー/ブダペストフィンランド/サヴォンリンナフィンランド/トゥルクフィンランド/ヘルシンキフィンランド/レヴィ・サーリセルカフランス/アヌシーフランス/アンボアーズフランス/カンヌフランス/コートダジュールフランス/ストラスブールフランス/トゥルコアンフランス/トゥールーズフランス/ナルボンヌフランス/パリフランス/パリ2フランス/ボルドーフランス/マルセイユフランス/リヨンフランス/リヨン2ブルガリア/ソフィアブルガリア/プレヴェンベルギー/ゲントベルギー/ブリュッセルベルギー/ルーヴェンポルトガル/ポルトポルトガル/リスボンポーランド/カトビッツェマケドニア/スコピエマルタ/マルタ島モンテネグロ/ポドゴリツァヨーロッパ/バルカンラトヴィア/リーガルクセンブルク/ルクセンブルクルーマニア/ブカレストロシア/サンクトペテルブルグロシア/モスクワ

ヨーロッパにもどる

  • 特派員プロフィール
  • ジェノバ特派員

    ジェノバ特派員
    浅井まき
    大学卒業後、社会人を経て2015年渡伊。イタリア北部リグーリア州の港町ジェノヴァに住み始めてはや3年目。現在はジェノヴァ大学の大学院史学研究科に在籍。日本と大きく異なるイタリアでの大学院生生活に四苦八苦しつつ、17~18世紀のジェノヴァ共和国に関する研究を行っている。自分の専門以外にも西洋史全般、美術、現代音楽、グルメ、スポーツなどへの関心大。晴れた休日には近郊へ写真撮影に行くのが楽しみ。 DISQUS ID '@disqus_n3hiU5o4o9

  • リーダーに登録

地球の歩き方Web特派員募集