海外旅行・観光情報の「地球の歩き方」TOP > 特派員ブログ > 日本  > 日本国内/奈良特派員ブログ

日本国内/奈良特派員ブログ 大向 雅

日本国内・奈良特派員が現地から日本地域に至るまで、旅行・観光・食事などの現地最新情報をお伝えします。


メール プリント もっと見る

DSC05729 (2).JPG

今回は談山神社(たんざんじんじゃ)を解説♪


神社に伝わる由緒によりますと、飛鳥時代に法興寺(ほうこうじ=現在の飛鳥寺)で行われた蹴鞠会で出会った中大兄皇子(なかのおおえのみこ=後の天智天皇)と中臣鎌子(なかとみのかまこ=後の藤原鎌足)が、藤の花の盛りの頃こちらの本殿の裏山に当たる多武峰(とうのみね)にて極秘の談合をされたとされている。


2D308512-E3F8-43AB-BFB0-F6A5973B5116 (2).jpg

それは、蘇我稲目(そがのいなめ)以来、常に政治の中心で実権を握り、自分たちだけの利益の為に民を苦しめ、天皇や皇族もないがしろにするといった傍若無人の振る舞いを繰り返す蘇我氏(そがし)を排除し、新しい国造りをするための計画であり、645年に飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや)で起こった蘇我入鹿(そがのいるか)討伐の事件、乙巳の変へとつながっていきます。


二人の出会いから入鹿の首が飛んでいく生々しい場面までが描かれた絵巻が、神廟拝所の中に展示されていますので、ぜひご覧になってください。


この事件を発端に、いわゆる大化の改新が始まり、中央統一国家及び文治政治の完成という、日本国の歴史的偉業を成し遂げることになっていきます。


DSC05741 (2).JPG

創建にまつわる縁起によると、669年に亡くなった鎌足公は最初、摂津国・阿威山(あいやま=現在の大阪府・高槻市)に埋葬されましたが、678年に唐から帰国した長男・定慧(じょうえ)と次男・不比等(ふひと)が、父の遺骨の一部を思い出の残る多武峰(とうのみね)の山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立し、妙楽寺(みょうらくじ)という寺院を創建したのがはじまりとのことです。その後701年に三丈四方の神殿を建て、鎌足公の像を安置した聖霊院が建立されました。


浄土院、食堂、経蔵、惣社、大温室、多宝塔、灌頂堂、五大堂、浄土堂などが立ち並ぶ大寺院に発展しましたが、鎌倉時代には曹洞宗や天台宗の僧を招き入れたことで、同じ藤原家の寺院とはいえ法相宗(ほっそうしゅう)の興福寺との争いが絶えず、堂塔伽藍はほとんど焼失してしまいました。


DSC05731 (2).JPG

その後も生田の戦火の中をくぐり抜けてきましたが、ついに明治時代の初めに出された神仏分離令により古代からの伝わる談い山(かたらいやま)伝説にあやかり、談山神社と改称されて、別格官幣社に列することとなりました。


DSC05767 (2).JPG

妙楽寺は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のあおりをうけて廃寺になってしまいましたが、建物は寺院風の建築をそのまま使用しているため、神社にしてはかなりお寺っぽい雰囲気を残しているのも談山神社ならではの見どころだと思います。


DSC05755 (2).JPG

現在立っているこの塔は室町時代1532年の再建されたものですが、高さが17m屋根は檜皮(ひわだ)葺き、木造の十三重塔としては国内唯一のもので、とても貴重なものですし、何よりその姿が美しいです。


DSC05744 (2).JPG

妙楽寺を建立するときに光る石が発見され、神が宿る結びの磐座として祀られたそうで、現在の東殿が恋神社として、男女はもちろん、人間関係の結び神として多くの参詣者が来られる恋愛成就のスポットとして人気があります。


AA39179A-AF0F-433C-A16A-4A79F63ACE0B.jpg

そして春秋にも桜や紅葉が美しく、奈良県有数の人気のスポットですが、本当の意味で日本の歴史において、とても重要な地であるということも知ってからお越しいただければと思います。


2018年5月24日

DSC03246 (2).JPG

長谷寺(はせでら)は、真言宗豊山派総本山の大寺院です。ご本尊は十一面観音で、西国三十三所観音霊場の第八番札所とされており、日本でも有数の観音霊場としてもその名を全国に轟かせています。


DSC01732 (2).JPG


創建は奈良時代前半と推定され、寺伝によると天武(てんむ)天皇の御代、686年に僧の道明(どうみょう)が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立したことが始まりとされています。


平安時代になりますと長谷寺には多くの文化人が参詣され、紫式部の「源氏物語」をはじめ、菅原孝標女の「更級日記」、藤原道綱母の「蜻蛉日記」といった様ざまな歌や物語に登場するようになりました。1024年には藤原道長が参詣した記録ものこされていて、中世以降は武士や庶民にも観音信仰が広がりました。


長谷寺はもともと東大寺の末寺でしたが、平安時代中期には興福寺の末寺となり、16世紀以降は覚鑁(かくばん)によって興された新義真言宗の寺院へと変わっていきました。そして天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来寺を追われた新義真言宗門徒が入山し、専誉(せんよ)によって現在の真言宗豊山派が確立され、全国に約3000もの寺院を抱える一大宗派へと成長しました。

DSC09650 (2).JPG
入口の仁王門から本堂までは399段の登廊(のぼりろう)を上るわけですが、最初の直線はほとんど段差を感じないような階段ですので、意外と楽に感じられるかもしれません。

DSC09124 (2).JPG
階段の途中には宗宝蔵と呼ばれる宝物館があり、中には国宝・銅板法華説相図が展示されています。これは釈迦が説法していたところ、地中から巨大な宝塔が出現した場面を表現したもので縦83.3センチ、横75.0センチの鋳銅の板に宝塔と諸仏が浮き彫り状に鋳出されています。

千仏は、薄い銅板を型に当てて槌で叩き出して成形した押出し仏で、銅板の下部には長文の銘が刻まれており、「戌年に飛鳥浄御原で天下を治めた天皇の病気平癒のため僧・道明が作った」と書かれています。これが即ち686年天武天皇の病気平癒のために長谷寺を創建したという根拠といわれています。

DSC07543 (2).JPG
国宝の本堂は、本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく舞台造になっています。本堂は奈良時代の創建後、室町時代の1536年までに計7回焼も失しており、現在の本堂は、徳川家光の寄進を得て、1645年から工事に取り掛かり、5年後の1650年に落慶したものです。扁額には大悲閣と書かれています。


大きな悲しみと書きますが「悲」という漢字は元来、救う・助けるという意味ですので大きな慈しみをもって衆生を救うという意味です。

DSC03266 (2).JPG
京都の清水寺と同様に崖の上に大きく舞台が張り出した造りになっていますので四季折々のロケーションも抜群です。

IMG_2052.jpg
高さ10メートル以上ある本尊・十一面観音像も8代目ですが、1538年にはすでに完成しておりましたので、新本堂建設工事は本尊をいっさい移動せずに行われました。そのため、内内陣の中に本尊を祀り、外側に内陣を造るといった複雑な構成となっています。つまり内々陣はまるで巨大な御厨子のようになっています。

また、御本尊は一般的な十一面観音像の像容とは異なり、左手には通常の十一面観音像と同じく水瓶を持たれていますが、右手には数珠とともに地蔵菩薩の持つような錫杖(しゃくじょう)を持たれています。伝承によれば、これは地蔵菩薩と同じく自ら人間界に下りて衆生を救済して行脚する姿を表したものとされており、他の宗派(真言宗他派も含む)には見られない独特の形式だそうです。


120511 (2).JPG
普段の参拝では、御本尊の上半分だけしか拝することはできませんが、3/1~5/30の特別公開(要・別途特別拝観料1000円)の折にはこの大きな観音さまの御足に触れてお参りできます。

機会がありましたら、ぜひお参りください。


2018年5月17日

IMG_6616 (3).JPG


聖林寺(しょうりんじ)は奈良県桜井市にある真言宗室生寺派の寺院です。

IMG_6627 (2).JPG
かつて中大兄皇子と中臣鎌足が大化の改新について語り合ったとされる、談山神社(たんざんじんじゃ)がある多武峰(とうのみね)へと続く山の中腹にあり、奈良時代の712年に談山神社の前身である妙楽寺(みょうらくじ)の別院として定慧(じょうえ)という僧が創建したと伝わっています。


定慧という方は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)の長男で、母は鏡女王(かがみのおおきみ)という女性。鏡女王といえば、飛鳥時代の有名な歌人である額田女王(ぬかたのおおきみ)の実姉であり、中大兄皇子(後の天智天皇)の側室だった女性です。


ここで一つの疑問が生じます。


といいますのも、中臣鎌足公といえば天智天皇の懐刀として飛鳥時代の政治の中枢を担う人物であり、後世にまで長く反映する藤原氏の始祖である凄い人ですし、そもそも中臣氏といえば代々神道を守る家柄なわけです。

このような人の長男を跡継ぎにすることなく仏教の僧として出家するなど、じつに不思議な話なので…巷では中大兄皇子が、すでにお腹に子を宿した鏡女王を、鎌足に下賜されたことに畏れ入り、自分の跡継ぎとせずに出家させたという噂もあるのも頷けますね。(あくまでもウワサですよ)


IMG_6615 (2).JPG

それにしても山の中腹にあることから、ロケーションが抜群で、右手前の三輪山から東大寺の後ろにひかえる若草山まで、古代より青垣と称された山々が綺麗に見渡せます。


IMG_6618 (2).JPG

本堂には、御本尊である大きな石造の子安延命(こやすえんめい)地蔵菩薩がで~んと座ってらっしゃいます。丈六(一丈六尺の略=約2.4m)のお地蔵さまですから、かなり迫力がありますが、少々体に対してアンバランスな大きなお顔が優しいこともあって、とても和みます。


延命地蔵さまというのは経典の中で、お釈迦様が自分の亡くなられた後にわれわれ衆生を救う存在だと言われていて、健康で丈夫になれる、人々の病を取り除く、寿命を長くする、賢くなる、女性なら出産できるといった幸福をもたらしてくださるとともに、風雨は時節にかなったものとなり、国家安泰で内乱・内部抗争が起こらず、星宿が悪い方向に変化せず、鬼神がやってくることはなく人民が病や飢餓に苦しむことなどの恐怖が取り除かれるとされている大変ありがたい功徳のある仏さまなのです。

そして御本尊に向かって左に立つ色白なのは白蓮華を持つ掌善童子(しょうぜんどうじ)、右に立つ赤色なのは独鈷杵という法具を持つ掌悪童子です。この二人はお地蔵さまの両手両足となり、衆生を救うために日々奔走されておられます。


IMG_6621 (2).JPG

とても心地よい風がそよそよと吹き込んで来る本堂で、お地蔵さまの顔を眺めていると、それだけで極楽にいるような気分になってきます。


そしてもう一体、ここ聖林寺には別格な仏様がおられます。 それはかつて明治の神仏分離令が出される直前に大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺であった大御輪寺(だいごりんじ)から聖林寺に移された十一面観音菩薩像です。

大御輪寺はその後の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく=仏教弾圧)によって廃寺となってしまいましたが、仏像は奇跡的に救われたわけです。


IMG_6622 (2).JPG
本堂からつづく階段を上っていきますと、鉄筋コンクリートで作られた耐火仕様の大悲殿という建物があります。中に入りますとガラスの向こうに凛とした表情で立たれる十一面観音菩薩像。像高209.1cmと大柄なお姿は凛とした雰囲気があります。

S__53977094 (2).jpg

木心乾漆(もくしんかんしつ)という技法で造られているお像で、信仰の対象としてはもちろんのこと美術的観点からみても秀逸な仏さまです。木心乾漆造といいますのは一木造りで仏像を彫上げた後、木屎漆(こくそうるし=麦漆に木粉等を混ぜたもの)を盛り上げて造像していくというもので、この像はそこへまだ金箔が施されていることからも分かるように、恐ろしく手間とお金がかかっている仏像といえます。

このように漆をふんだんに使う技法は天平時代(奈良時代の美術史上の時代のこと)特有のもので、現存するお像も少数であり、これほど状態が良い仏像は大変貴重なことから国宝に指定されています。ちなみに国宝の十一面観音菩薩像は日本にたった七体しかありませんから、国宝中の国宝だと言えます。


IMG_6613 (2).JPG

バスの本数も多くない場所ですので少々骨が折れますが、奈良観光の際にはこちらにぜひ足を運んでいただくだけの価値はあると思います。


2018年5月10日
2018年5月 3日
2018年4月26日
2018年4月19日
2018年4月12日
⇒すべての記事を見る

近畿旅行 旅スケジュール

旅行者の作る、新着!旅スケジュールをご紹介します。 ■奈良県の旅行記・口コミ「旅スケ」へ

日本国内特派員ブログ一覧

しまなみ海道・広島ニセコ・北海道三重与論島五島列島京都和歌山埼玉大阪奈良宮古島富山小笠原山形広島徳島房総・千葉新宿札幌東京東京2東京3栃木横浜・神奈川沖縄沖縄2渋川湘南滋賀神戸神戸・兵庫福井福岡福島種子島能登茨城軽井沢・長野金沢釧路長崎長野青森香川鶴見大島・大分鹿児島

日本国内にもどる

  • 特派員プロフィール
  • 奈良特派員

    奈良特派員
    大向 雅
    京都奈良観光散策 雅流塾の代表 観光ハイヤーの経験と知識をもとに2014年に独自の観光ガイドシステムを立ち上げフリーランスの観光コンシェルジュ“たっしー&たー坊”として活動中 古都奈良にある神社・仏閣や名所旧跡を通して 古代より現在まで先人たちから受け継ぎ育んできた歴史と文化を分かりやすく伝えていきたいと思います。 DISQUS ID @disqus_YaoRmxkTzr

  • リーダーに登録

地球の歩き方Web特派員募集