ヤッパン号 <咸臨丸入港150周年>

公開日 : 2010年03月30日
最終更新 :
咸臨丸プレート8155.JPG

幕末の歴史で『咸臨丸』という船をご存知の方は、多いと思います。  1857年3月オランダ生まれのヤッパン号(オランダ語で日本という意味)  3本マストと西洋式スクリュー付きで当時の日本では、実に ”ハイカラ” な軍艦でした。

ヤッパン号は、咸臨丸と名前をあらため、日米修好通商条約の批准書交換で、渡米するお役人さん達を乗せた軍艦ポーハタン号の ”万が一のお共” として1860年2月9日浦賀を出港。  

軍艦奉行・木村摂津守を筆頭に、艦長・勝海舟。  木村摂津守の従者・福沢諭吉。  通訳・ジョン万次郎。  更に、 ”咸臨丸の万が一” と米国側連絡係を兼ねてジョン・ブルック大尉が乗船。  日米あわせて107名の乗組員。

お共と言っても咸臨丸は、本船ポーハタン号よりひと回り小さな船で、真冬の太平洋に乗り出した。  船に弱い方、想像しただけで船酔いしそうであります。  本当に嵐の連続だったそうです。

勝海舟は、江戸で蘭学を学び、長崎でオランダ語を活用。

福沢諭吉は、長崎でオランダ語を学び、横浜の外国人居留区へ行った際、英語の看板が読めずショックを受け、以来英蘭辞書を駆使して英語の勉強。

ジョン万次郎は、本場アメリカ仕込みの英語と立ち振る舞い。

お奉行様は、長崎赴任の時身につけたオランダ人との交流テクニックを発揮し、西洋人に負い目を感じない様にと私財をなげうって、日本人乗組員の身支度を整えた。  後は “良きに計らえ”

船内の人間模様はいかがなものだったでしょうか?

3月17日、サンフランシスコ入港。  ピア9番に接岸。  この航海で三人の水夫さんが亡くなっています。  コルマの日本人墓地に静かに眠っています。  墓碑に刻まれた年齢、21。  艦内で伝染病にかかり、力つきました。  荒れ狂う大海原での不安、船底で雑魚寝、しかも重労働。  故郷の瀬戸内海が恋しくなった時もあったのではないでしょか。

ポーハタン号は、10日後に到着。

入港後、ご一行様は、現地の方と一切トラブルを起こすことなく、礼儀の正しさを賞賛されて途中ホノルルにより、5月5日浦賀に帰港。

大義終了後、咸臨丸は、小笠原諸島の調査に従事。  1866年、故障が続くため、蒸気機関を撤去され、帆船となります。

1871年、小樽に向けて出航。  北海道木古内町和泉沖で暴風にあい、更木岬で遭難。

11月2日、咸臨丸14年の歴史に終止符。

今年は、艦厘丸サンフランシスコ入港150周年。4月に日本町で開催される 『桜祭り』 でイベントが予定されています。  また、練習帆船 “海王丸” が艦厘丸の子孫の方を乗せて東京港を出港、5月5日サンフランシスコに寄港予定です。

*写真は、ピア9の歩道に埋め込まれたプレート。

筆者

アメリカ・カリフォルニア州特派員

美丸(Mimaru)

サンフランシスコ在住ビアジャーナリスト。全米のクラフトビール探求の日々、訪問したブルワリー、タップルーム情報は随時投稿。

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