No.38【コラム】昨日の奸賊、今日の英雄:レジスタンス活動家

公開日 : 2014年11月21日
最終更新 :
筆者 : 冠 ゆき

1939年9月2日フランスによる国民徴兵の呼びかけ

 以前の【コラム】でも触れたが、1939年9月ポーランドに侵攻したドイツは、続いて、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、フランスに攻め入った。1940年5月10日始まったこの戦いは、一月余り後の6月22日、ドイツのフランス北部占領を認める休戦協定を結ぶことによって一旦終了した。

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1940年ドイツの攻撃(緑の矢印)

 余談だが、この休戦協定は、ヒトラーの強い要望により、第一次世界大戦の休戦協定(1918年11月11日)が締結されたその場所(コンピエーニュの森の一車両の中)で締結された。ドイツにとって、事実上の降伏調印であった1918年の休戦協定の屈辱を晴らす心があったのであろう。

 ついでに言えば、二度も歴史的事件に立ち会ったこの車両は、その後ベルリンに運ばれ展示されていたが、1945年4月、ヒトラーの命により、SSによって破壊された。5月8日のドイツ降伏の一月前のことであった。ヒトラーが、いかにこの車両にこだわっていたかよく分かる逸話である。

 なお、現在コンピエーニュの森の休戦協定博物館に設置されている車両は、同じく1913年に作られた同タイプのものであるが、実際に用いられたものではない。

《住所》route de Soissons, 60200 Compiegne

 さて、上記1940年の戦いの末、イギリスに亡命したシャルル・ド・ゴール仏将軍の呼びかけに応じて、組織されたのが、レジスタンス(抵抗運動)組織であることは、No.29【コラム】秋の日のヴィオロンの...もう一つの物語にも書いた。

ラジオ・ロンドルで演説するシャルル・ド・ゴール

 繰り返しになるが、彼らの活動は、情報収集、ビラまき、地下組織での新聞作り、占領地域での強制労働のサボタージュ、スト、デモなど多岐に及んだ。ドイツ軍の活動妨害のため、橋や線路の破壊行為も行われた。また、1943年には、マキと呼ばれる組織も生まれ、これは主にゲリラ活動を行い、大いにドイツ軍を悩ませた。

ドイツ車両をパンクさせるために用いられた道具

 レジスタンス活動家によって、サボタージュやドイツ軍への妨害活動が行われるたび、ナチス・ドイツは、厳しい懲罰を科した。レジスタンス活動家は、一旦捕まれば、拷問の末、銃殺されるか、もしくは、強制収容所に送られることになっていた。見せしめのために、処刑後の遺体が、何日も野晒しにされることもあった。

テロ活動への報復として五人の捕虜を銃殺したと告げる張り紙

 第一、当時のナチス・ドイツやヴィシー政府は、「レジスタンス」という単語など使わなかった。彼らは一様に「テロリスト」と呼ばれたのである。フランスの自由地域を統治していたヴィシー政府が、同じフランス人であるレジスタンス活動家を処刑したと聞くと驚かれるかもしれない。だが、ナチス・ドイツとの共存を図っていたヴィシー政府にとっては、レジスタンス活動は、敵以外の何者でなかったのだ。

イギリス軍への援助、また自由地域への逃走を補助した罪で、一人に死刑を宣告、四人に強制労働を命ずる張り紙。

 レジスタンス活動家処刑という報復へ、密告者(同じフランス人)処刑という報復が繰り返され、正に血で血を洗う、内戦状態に近いものであった。

 レジスタンスについては、地下組織であったこともあり、いまだその活動の全容は、明らかではない。しかし、おおよその統計によれば、1940年6月22日から1944年のフランス解放までの間、レジスタンス活動に関わった者は、人口の2-3パーセントでしかなかったとされている。

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レジスタンスの象徴・ロレーヌ十字

 ナチス・ドイツやヴィシー政府によるレジスタンス活動家への報復は、活動に関わる本人のみならず、その家族や同じ村のものにも及ぶことがあり、何の落ち度もない市民が、見せしめに処刑されることさえあった。おそらく、大多数を占める市民は、戦々恐々としながら毎日を過ごしていたに違いない。実際、当時の資料を読むと、多くの市民らは、その日その日、飢えずに暮らしていくことだけで精一杯だった様子が見えてくる。

 現在、フランスには、各地に、レジスタンス博物館や記念館が存在する。正確な数は分からないが、少なくとも50以上を数えることは間違いない。

 或る統計によれば、ドイツ占領期間中のフランスで、レジスタンス運動が原因で、ドイツ国防軍かゲシュタポ、あるいはヴィシー政府に殺害された者は3万5000人と見積もられている。強制収容所に送られた者の数は8万6000。

 中でも、パリ南西部のシュレーヌにあるモン・ヴァレリアン城塞では、レジスタンス活動家1000人以上の処刑が行われたという。今はこの場所も記念館となっている。

リール郊外の城塞も、処刑場として用いられた場所が多い。スクランの城塞では67人、ボンデュの城塞では、68人が銃殺されたという。

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ボンデュ・ロボー城塞

 ボンデュのロボー城塞の処刑場所には、そこで命を落とした68人の名が刻されているが、そのうち三名は、偽名として使ったコード名しか記されていない。70年が経過した今年2014年9月、歴史家の研究により、そのうち二名の本名がようやく判明したというニュースが流れた。残る一名については、いまだ謎のままである。

 フランス解放後は、英雄扱いされることも多いレジスタンス活動家たちであるが、彼らの生活は、ヒーローとは程遠いものであったろう。指導者的立場にあった何人かのレジスタンス活動家を除いて、いまだにコード名しか残っていない者もいれば、そのコード名すら残っていない者は、数え切れないはずである。

 ロボー城塞は、現在「レジスタンス博物館」となっており、当時のめまぐるしく変化した状況を、時間軸に沿って、またテーマ別に分かりやすく展示している。

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レジスタンス博物館

《住所》Avenue du Général De Gaulle, Bondues

《行き方》

・リールからLiane 91番バスHalluin行きに乗って、Fort de Bondues下車。

・リールから86番バスComines行きに乗り、Fort de Bondues下車。

《開館時間》

月・水・木・金:14 :00-16 :30、第1および第3日曜:14 :30-18 :00。

(7-8月は、月・水・木・金:14 :00-18 :00)

《入館料》6ユーロ、12歳未満無料

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筆者

フランス特派員

冠 ゆき

1994年より海外生活。これでに訪れた国は約40ヵ国。フランスと世界のあれこれを切り取り日本に紹介しています。

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