【トゥール |バルザック年 - 生誕220記念】バルザックの幼少期をたどって街を歩こう|Balzac Tours
サントル・ヴァル・ド・ロワール地方、トゥールの街は、フランスを代表する文豪バルザックのゆかりの地。そして今年2019年は、バルザック生誕2年目にあたります。トゥール市ではバルザック生誕220年を記念して、バルザック関連の特別展示や講演が開催されています。
写真は、トゥール市庁舎前のバルザック年の公式ロゴ(トゥール駅でも目にします)。
バルザックのゆかりの場所をたどってみましょう。
バルザック幼少期の背景メモ
母親自身で育てた1人目の子供が生後間もなく亡くなったため、そのトラウマから、2人目に生まれたバルザックは、生後間もなく、Saint Cyr Sur Loireサン・シール・シュル・ロワール(トゥール郊外)の乳母に預けられます。その後、妹も、生後間もなく、同様に預けられる、という背景から、幼少期時代のバルザックは寂しい思いをしていたとも言われています。
バルザックの生家|47 rue Nationale(旧25 rue de l'Armée d'Italie )
1799年5月20日バルザックが生まれた家。生後間もなく乳母に預けられたため、バルザック自身には印象があまりなかったといわれています。
バルザックの実家|53 rue Nationale (旧 29 de l'Armée d'Italie)
1804年、バルザックが4歳になると、同じ通りにある父が購入した家に住むようになります(1940年6月の空襲で建物は被害にあう)。8歳のときにバルザックはCollège des Oratoriens ( Vendôme ヴァンドーム) に通うため、家族と住むこの家を出て寄宿学校に入ります。
1813年に、バルザック父の仕事でトゥールを去り、パリに住むことになりますが、バルザック一家は、引越し直前の1814年までこの家に住んでいたといわれています。1885年、バルザック家族が住んでいた建物は印刷所となり、1905年、薬局が開業。
度重なる建物使用の用途変化により、現在では外観も様変わりしましたが、今日も薬局が店舗に入っています(建物左手側)。
ナショナル通りは、Place Jean Jaurès ジャン・ジョレス広場のトゥール市庁舎(右手)とPlais de Justice 裁判所(左手)の間を通る通りで、トラムも行きかっています。
Pension Le Guay ル・グエイ寄宿学校|57 rue de la Scellerie ( 旧 rue de la Scellerie)
当時、バルザックは、40人ほどの生徒にまじって、トゥールでもトップレベルの寄宿学校に通っていました。現在は、コンサートなどが行われている劇場「l'Hôtel du Théâtre オテル・デュ・テアトル」です。
Saint-Gatien 聖ガシアン大聖堂
幼少期、日曜ミサに来ていたといわれている大聖堂です。
Hôtel de la Boule d'Or|27, rue National
1845年8月、妻ハンスカを連れてロワール川川岸を訪れた際に宿泊したホテルです。1940年の空襲で破壊されました。
Pension Vauquer ヴォウグケ寄宿学校|7 rue des Cerisiers
バルザックの2人の姉妹が、この寄宿学校で教育を受けます。バルザック作「ゴリオ爺さん」という作品中にも登場。
【原文・参考文献 https://balzac-tours.fr/】
[その他画像・掲載許可済]
筆者
フランス特派員
リリィ
フランス在住14年目。仏文簿記の国家取得を目指し学習中。
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