カザフスタン 日本人抑留者が未来に残したもの。

公開日 : 2014年07月09日
最終更新 :

今回は少しまじめなカザフスタンの歴史についてのお話です。アスタナに住む日本人の集

まり「日本人会」では、毎年夏になるとお墓参りをします。さて誰のお墓参りでしょう?

きっと一度は聞いたことがあるかと思います。シベリア抑留者の方々へのお墓参りです。

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シベリア抑留とは、第二次世界大戦が終わった際に投降した日本軍の捕虜がソ連によっ

てシベリア等に送られ、長期にわたり抑留生活と強制労働を強いられたことを指します。

記録によると、ここカザフスタンには以前60万人を超える日本人抑留者のうち約6万人

が強制的に連行されてきました。アスタナには約2千人が抑留されていたとのことです。

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中でも、アスタナから車で3時間のカラガンダ州に抑留されていた日本人は半数以上の約

3.4万人。冬は氷点下40℃になることもある過酷さから、多くの抑留者が亡くなりました。

アスタナ日本人会のお墓参りは、毎年ここカラガンダへバスを貸し切って行っています。

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カザフ最大の収容地区カラガンダには通称「スパスク」と呼ばれるラーゲリ(収容所)が

ありました。そう遠くない昔、日本人はここでどのような生活を送っていたのでしょう。

カラガンダ州議連の議長を務めるドゥラトベコフ・ヌルランさんのご協力により、当時

の抑留者に関係する大変貴重な写真の転載許可をいただきましたので、数点紹介します。

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シベリア抑留は、飢餓・極寒・重労働の三重苦と言われていました。バム鉄道の建設に

おいては「枕木1本に人柱1本が立った」と言われるほど大量の死亡者が出たそうです。

ノルマを達することが出来ないと食事の配給が減らされ、食事の配給が減らされると栄

養が取れずにますますノルマの達成が遠くなり、やがて寒さに倒れていくという悪循環。

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寝床となる宿舎は仕切り板によって二段、三段に分けられた寝台が中央の廊下を挟んで

左右両側に取り付けられているだけのもの。まるで蚕棚の様なバラックだったそうです。

当初衛生環境は劣悪で多くの収容所でチフスが流行し当局も対策に追われました。療養

所では薬の投与もなく、結核やチフスなどの感染症患者が収容されていたとのことです。

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過酷な抑留生活での唯一の楽しみは食事。配給量は1日当たり黒パン350g、野菜800g、

塩20g等とされていたものの、実際はカーシャという薄い粥など大変粗末なものでした。

そのため調理場に捨てられた肉の骨や野菜のへた、作業場やその道中で目にした虫や蛇

など、食べられる物や栄養になりそうな物は何でも口に入れて飢えをしのいだそうです。

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さて、戦後ソ連は大飢饉に見舞われましたがその後経済は回復し、食糧事情も次第に改

善。正月には簡単な御節料理が並べられるようになり抑留者たちを喜ばせたといいます。

生活の余裕は食事以外の楽しみにもつながっていきました。絵画や将棋など趣味を持つ

ようになり、カザフで抑留されていた横山操はその後昭和を代表する日本画家の一人に。

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音楽や演劇も盛んになりました。バイオリンを自分たちで作ったり、劇場にあった壊れ

たグランドピアノを修復したりして、音楽を通じ他の国の抑留者たちとの交流も活発化。

例えばルーマニア人抑留者の楽団が日本人抑留者への慰問として「桜」や「荒城の月」

を演奏し、日本側はドイツ人抑留者の送別会でドイツ軍楽を演奏するなどしたそうです。

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カザフ当局も日本人抑留者の慰安のために、お盆に合わせてラーゲリ内の広場で盆踊り

大会をひらき、現地の少女たちに着物を着させて舞を舞わせるという演出を行いました。

このとき抑留者たちは涙を流して感激し、力一杯の拍手をおくったと伝えられています。

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さて、日本人会のお墓参りに話を戻します。目的地は2つ。一つは市内から20キロ程離

れたところにあるスパスク国際慰霊碑、もう一つはフョードロフスカヤ日本人墓地です。

長時間バスに揺られたどり着いた、広大なステップの只中にあるスパスクの国際慰霊碑。

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カラガンダには日本人のほかドイツ、ウクライナ、ポーランド、韓国など様々な民族が

抑留されていて、23の慰霊碑が設置。埋葬されている捕虜の数は5千を超えるとのこと。

写真はグルジア人抑留者のための慰霊碑。いずれも母国語でメッセージが刻まれてます。

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日本人の埋葬碑は一番奥。石碑はただ静かにそこにありました。ついに祖国に帰ること

が叶わずこの地でたおれていった抑留者たち。故郷から遠くさぞ無念だったでしょうね。

いま日本の厚生労働省はカザフ政府の支援の下、遺骨を日本に帰還する事業を行ってま

す。一日も早く、せめてご遺骨だけでも故郷に戻れる日がくることを願ってやみません。

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お墓参りでは、最初に石碑の清掃を行います。一拭き一拭きに色々な想いを込めながら。

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そして日本人会を代表して、在カザフスタン日本国大使館の大使が献花。その後、参加

者それぞれがお焼香用のお線香を立てては、各自しずかにご冥福をお祈りするのです。

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続いて市街地にあるフョードロフスカヤ日本人墓地。沢山の墓石が所狭しと並んでます。

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カラガンダ第11収容所戦友会が建てた慰霊碑の横には「友よ 安らかに眠れ」の木柱が。

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カザフスタンでは約1500人もの日本人抑留者が亡くなりました。けれど、ソ連全体の死

亡率10%に比べるとわずか2.5%です。元抑留者の多くは「カザフで幸運だった」と口を

そろえるそうで、その理由は、カザフの人々がいつも親身に接してくれたからとのこと。

両者の交流の中には、例えば兵士に誤って銃で撃たれた現地の少女を日本人軍医が見事

な手術で救ったり、かつて日露戦争で日本の捕虜になったという老人が、日本に抑留中

日本人に親切にして貰ったことを懐かしく語ったりなど、様々なエピソードがあります。

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カザフスタンは中央アジアきっての親日国。それはカザフにおける日本人観が驚くほど

良いからだといいます。勤勉で、まじめで、礼儀正しく頭が良く、仕事もできる−など。

抑留という過酷な状況の中でもわずかな希望を捨てることなく、ただひたむきに働き続

けた日本人という民族の記憶が、この国の多くの市民の心に深く刻まれていったのだと。

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日本人が残したものの一つにオペラ劇場「リェットニー・テアトル(夏の劇場)」がカラ

ガンダにあります。2004年の取り壊しの際、市民が保存を求めて反対の声を上げました。

現在は劇場の一部を市内の公園に移転することで記念として保存されています。当時「夏

の劇場」完工を記念したこけら落とし公演には、日本人抑留者が特別招待されたそうです。

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戦争を知らない世代が多勢となった日本。私たちは負の遺産とともに、その時代に日本

人が残したものひとつひとつに目を向けていくことも、とても大切なことだと思います。

カザフが親日国である理由の一つには、一言で語り尽くせない歴史が背景にありました。

こうした歴史を胸に、これからも日本人であることを誇りに生きていけたらと思います。

ひとりでも多くの日本人に。戦争が終わってもなお遙か遠いカザフスタンの地で、日本

に帰ることを夢見て必死に生きてきた日本人抑留者のことを知ってもらえたら幸いです。

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<今回の記事は味方俊介さんの「カザフスタンにおける日本人抑留者」 (東洋書店)も

広く参考にさせていただきました。味方さん、あらためてありがとうございます>

https://www.gov-book.or.jp/book/detail.php?product_id=189063

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