日本写真史をつくった101人「私の1枚」~フジフイルム・フォトコレクション

公開日 : 2020年07月19日
最終更新 :
筆者 : Duke

こんにちは、「地球の歩き方」福岡特派員のDukeです。新型コロナの感染が再び増加傾向に転じ、第二波の襲来が懸念される毎日ですね。引き続き気を引き締めて感染拡大防止に努めていきましょう。

さて今日は、リバーウォーク北九州にある北九州市立美術館分館で開催中の「フジフイルム・フォトコレクション 日本写真史をつくった101人」を紹介します(写真はリバーウォーク北九州全景)。

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この少し先が市立美術館分館の入口。体温チェック、手の消毒をしてから、氏名・連絡先等を記入します(代表者のみ)。

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フジフイルム・フォトコレクションは、富士フイルム株式会社が2014年、創立80周年を記念して創設した写真コレクションです。

この展覧会では、国内外で高く評価される日本人写真家101人の代表作を1点ずつ、年代別(+ネイチャーフォト部門)に区分して展示しています。撮影不可なのでリーフレットだけ載せておきますが、印象に残った作品をいくつか紹介したいと思います(作者と作品名をクリックすれば写真を掲載しているウェブサイトで作品を観ることができます)。

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「第3章 戦後~1960年代 報道写真と新たな映像表現の台頭」では、次の4点が印象に残りました。

山口県出身の林忠彦は、木村伊兵衛、土門拳、渡辺義雄などと並ぶ昭和を代表する写真家のひとり。銀座の老舗バー「ルパン」で撮られたこの写真は、すでに酔いのまわった太宰治から「おい、織田作(織田作之助)ばっかり撮ってないで、俺も撮れよ」と言われて撮ったものだそうです。私たちがよく目にする太宰治の、硬く冷徹で古くさい写真では見ることができない、くつろいで楽し気な、茶目っ気すら感じさせ、太宰のイメージを大きく膨らませる1枚でした。この2年後、太宰は劇的な入水自殺を遂げ、自らの人生に幕を引くことになります。

木村伊兵衛は1901年東京出身。日本の最も優れた写真家として、土門拳と双璧をなす木村伊兵衛ですが、ふたりについて興味深いエピソードがあります。

女優の高峰秀子が著書で「いつも洒落ていて、お茶を飲み話しながらいつの間にか撮り終えている木村伊兵衛と、人を被写体としてしか扱わず、ある撮影の時に京橋から新橋まで3往復もさせ、とことん突き詰めて撮るのだが、それでも何故か憎めない土門拳」と評している(ウィキペディア)。

写真のモデルは柴田洋子さん。どことなく芯の強さを感じさせつつも、清楚で物静かな印象の秋田美人ですが、長年来の友人によると、「バレエをしたり、けっこうはきはきした人」で、結婚後はずっとロサンゼルスに住んでおられたそうです。

1931年福岡県出身の奈良原一高は、日本のみならずヨーロッパやアメリカなど広く海外にも活動範囲を広げ、1972年にはModern Photography誌の「世界の32人の偉大な写真家」にも選ばれました。異次元の世界に踏み込んだようなこの写真は、撮影のためのセットではなく、街頭にあったゴミ缶を撮ったものだそうです。どこか現実離れした感覚に襲われる魅力的な写真でした。

1936年島根県津和野町出身の桑原史成は、日本を代表するフォトジャーナリストのひとりです。大学および専門学校を卒業した1960年、23歳の桑原は水俣病によって「生きることの自由を奪われ、廃人にされた患者、生活権を奪われ窮状の漁民の生活の記録」に焦点を絞って撮影に臨みました。展示されているのは、桑原のデビュー作であり、代表作ともなった『水俣』に収録された1枚で、もの言わぬ少女のまっすぐな瞳、長く美しいまつげが印象的です。多くの被害者やその家族にとって写してほしくないという気持ちが強いなか、お互いの信頼関係がなければ決して撮影できなかった写真だと思います。

こちらは、「第5章 1980年代~ 新たな展開と現代アートとしての広がり」の作品です。

長倉洋海は1952年北海道釧路市生まれ。フォトジャーナリストとして世界の紛争地を渡り歩くなかで、1983年からは、「パンジシールの獅子」と呼ばれ、ソ連やタリバンとの戦いを続けた司令官マスードと行動を共にし、マスードが亡くなるまで17年間にわたり友人として交流を続けました。マスードは生涯戦闘に明け暮れながらも、常に穏やかで誰にでも優しく接し、本や詩を読むことが大好きな敬虔なイスラム教徒だったそうです。つかの間の休息、山の斜面の草むらに寝転がって一心に本を読むマスード。その穏やかな人柄が伝わってくる1枚でした。

「自然写真(ネイチャー・フォト)の系譜」にも印象的な作品が多く展示されていました。

1905年鳥取県出身の田淵行男は、日本を代表する山岳写真家で著名な高山蝶研究家でもあり、「安曇野のナチュラリスト」と呼ばれました。この写真は、冬の黒斑山の山麓を驚くほどリアルに切り取った迫力のある作品です。

緑川洋一は、1915年岡山県出身で本業は歯科医。故郷の眼前に広がる瀬戸内海の写真を撮り続けて、アマチュア写真家ながら国内外から高い評価を受けました。

夕日を浴びて、複雑で微妙なグラデーションを見せる海を背景に浮かぶ島や舟、灯台のシルエット。「色彩の魔術師」とか「光の魔術師」と呼ばれたというのも頷ける作品です。撮影日和になると「臨時休診」の札を掲げ、歯科医院を休んで撮影に出かけることもしばしばあったというエピソードも、どこか微笑ましく感じられます。

前田真三は1922年東京都出身の写真家。上高地、奥三河、富良野(美瑛・上富良野)などの風景写真・山岳写真を数多く撮影しました。

この写真は、麦畑が広がる北海道美瑛の丘。暗く黒い夕立雲が垂れ込めるなか、落日間際の太陽が雲間から麦畑を照らし出した一瞬をとらえたもので、タイトルのとおり「鮮烈な」印象を与える作品です。

星野道夫は1952年千葉県出身。19歳のある日、星野道夫は古書店で手にした海外の写真集『ALASKA』に掲載されたエスキモーの村「シシュマレフ」の写真に魅せられます。矢も盾もたまらずその村の村長宛に出した手紙に、なんと半年後その返事が届きました。これを頼りにアラスカに渡った星野道夫は、夢にまで見たシシュマレフ村でひと夏を過ごします。このときの経験が、後の星野道夫が誕生する契機となりました。

星野道夫の1枚は、第15回木村伊兵衛賞を受賞した写真集『アラスカ―極北・生命の地図』の表紙を飾った写真です。

星野道夫は43歳で非業の死を遂げるまで、極北の自然とそこで生きる野生動物、人々の暮らしを撮り続け、私たちにメッセージを送り続けました。写真集だけではなく彼が残した多くの著作には、深い洞察力や瑞々しい感性、生きるものに対する限りない愛情が、惜しみなく注ぎ込まれているように感じられます。

北九州市立美術館分館の「フジフイルム・フォトコレクション~日本写真史をつくった101人『私の1枚』」は、会期が延長となり、7月26日まで開催されています。興味のある方はお出かけになってみてはいかがでしょうか。

前回紹介したゼンリンミュージアムも同じリバーウォーク北九州ですので、1ヵ所で美術館・博物館めぐりが楽しめます。またリバーウォークでは、ぜひ5階のルーフガーデンにも足を運んでみてください。リバーウォーク北九州の斬新なデザインや小倉城の眺めは一見の価値がありますよ。

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【北九州市立美術館分館】

・場所: 北九州市小倉北区室町1-1-1 リバーウォーク北九州5階

・問合せ: 093-562-3215

・開館時間: 10:00~18:00(会期中無休)

・料金: 一般 1000円、高大生 600円、小中生 400円

筆者

特派員

Duke

縁あって福岡県北九州市に落ち着いて、はや15年。県外の方はもちろん、地元の方にも楽しんでいただけるよう、福岡・北九州の旬な情報を発信していきたいと思っています。

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