16世紀の"シニアの星"。ジェノバの英雄アンドレア・ドーリア

公開日 : 2018年10月01日
最終更新 :
筆者 : 浅井まき

ジェノバ出身の偉人というと、どんな名前が思い浮かぶでしょうか。一番はやはりクリストファー・コロンブスでしょう。イタリア統一運動の"三傑"に数えられるジュゼッペ・マッツィーニもジェノバ出身です。そして意外と知られていないのが、ボッティチェリの有名絵画「ヴィーナスの誕生」や「春」のモデルとなったシモネッタ・ヴェスプッチや、伝説的なヴァイオリニストのニコロ・パガニーニ。彼らも実はジェノバ(またはリグーリア州)の生まれです。

ただ、スペイン王室に仕えて新大陸へ到達したコロンブスを筆頭に、これらの人物は目立った活動の殆どをジェノバの外で見せています。そんな中、最後までジェノバ人としてジェノバのために尽くした人物が今回取り上げるアンドレア・ドーリアです。

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(アンドレア・ドーリア。Sebastiano Del Piombo画、1526年頃。ヴィラ・デル・プリンチペ所蔵。パブリックドメイン。<ウィキメディア・コモンズより引用>)

不遇の青年時代から立身出世へ

先に挙げた人物たちに比べると、あまりピンとこない名前かもしれません。しかし、アンドレア・ドーリアは16世紀のヨーロッパで最強の提督と言われ、その軍功にあやかるべく現在もイタリア海軍の駆逐艦の名称になっています。

1466年、ジェノバ共和国の"リヴィエラ"と呼ばれる辺境の沿岸都市オネーリアで質素な貴族家の次男として生まれたドーリアは、17歳のときチャンスを求めて親族のいる首都ジェノバへ向かいます。しかし当時のジェノバは派閥同士の紛争が絶えない混乱状態。ドーリアは結局ジェノバを離れ、傭兵としてジェノバ出身のローマ教皇に仕えることとなりました。

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(ジェノバのドーリア家の邸宅が密集していたサン・マッテオ教会周辺)

ドーリアは190センチ近い長身痩躯に、若い頃から頬はげっそりと窪んで決して美男とは言い難かったものの、目つきが鋭く存在感のある人物だったと言われます。

15世紀後半~16世紀初頭、イタリア半島全体が強国による領土の取り合いで混乱に陥った"イタリア戦争"の中、傭兵隊長となったドーリアはイタリア各地を転々としながら軍人として着々と功績を挙げていきます。小型のガレー船(多くの漕ぎ手を乗せた地中海の櫂船)数隻を率いた少数精鋭によるゲリラ的戦法を得意とし、配下の兵士からの全幅の信頼を得るカリスマ提督となっていきました。

転機・1528年

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(16世紀頃のガレー船。ジェノバ、ガラタ海の博物館で実物大のものを見られる)

既に還暦を迎えていたドーリアは、フランス王フランソワ1世と契約し、神聖ローマ皇帝カール5世率いるスペイン軍と対峙していましたが、故郷ジェノバのことを常に案じていました。

当時のジェノバ共和国はかくかくしかじかでフランスの"保護国"となっており、フランスによる内政への締め付けが日に日に強まっていました。ドーリア率いる隊は善戦していたものの、フランス側は劣勢となってくる中、ドーリアもフランス王への懐疑心を募らせます。

そして、フランスとの契約が満了した1528年8月、ドーリアは大胆にも敵であるカール5世側へと翻り、つい先日まで自身が指揮をとって防衛していたナポリの港を(当然ながら)あっという間に攻め落としてしまいます。そのままジェノバへ進軍し、駐屯していたフランスの軍隊を破るとジェノバ共和国の自由と独立を宣言しました。

60代にしてようやく手にした地位と資産

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(サン・マッテオ広場に「祖国解放の父」ドーリアの功績を称えるプレートが設置されている)

カール5世にとって最大の功労者の一人となったドーリアはジェノバ共和国の内政の自由に対する保証をとりつけるとともに、豊かな領地と名誉ある称号を多数得ることとなりました。

名実ともにジェノバのリーダーとなる資格を得たドーリアでしたが、彼は大方の予想に反して君主となることを拒みます。ジェノバはやはり多数の有力者が乱立し牽制しあうお国柄で、君主制など長続きしないであろうことをよくわかっていたためです。ドーリアは終身監督官という地位を得るにとどまり、再び海へ出ていきました。

地中海最強の名を懸けたライヴァル、ハイレディン・バルバロッサ

イタリア戦争が落ち着いた後も、スペインとの友好関係によりジェノバが非常に潤ったのは言うまでもありません。その新大陸をも支配し"日の沈まない帝国"と言われた黄金時代のスペインの躍進をよしとしないのはヨーロッパ諸国だけでなく、東にそびえるオスマン帝国も同様でした。

ドーリアが西地中海で最強の提督の名をほしいままにしていた一方、オスマン帝国の支配する東地中海最強の提督として名をはせていたのがハイレディン・"バルバロッサ(赤ひげ)"です。2人の対決は配下同士のものを含めると多数あり戦績も拮抗していますが、最大の直接対決となったのは1538年のプレヴェザの海戦でした。

この有名な海戦でスペイン、ジェノバ、ヴェネツィア、マルタの合同艦隊の総指揮官を務めたドーリアですが、戦況が明らかに不利とみるや、ろくに戦いもせず早々に撤退を命じました。彼のキャリアにとって不名誉な記録となったのですが、兵士を無駄死にさせるような勝ち目のない戦いは避けるというのが彼の信条でもありました。

アンドレア・ドーリアの足跡をたずねて

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(ヴィラ・デル・プリンチペの庭園。ドーリアの海上での功績を顕し海神ネプチューンの像が建っている)

ドーリアは1560年11月、94歳の誕生日を目前にしてジェノバでこの世を去りました。当時としては異例な大往生です。彼自身に子はなかったため、彼の血を引く子孫は存在しませんが、養子の息子であるジョヴァンニ・アンドレア(ジャンアンドレアとも)がその後継者となりました。

ドーリアがジェノバ市のはずれに建てた大邸宅が今でも残っています。ヴィラ・デル・プリンチペと呼ばれるこの屋敷は、現在もジョヴァンニ・アンドレアの直系子孫であるドーリア・パンフィーリィ家の所有となっており、当主のご家族が滞在することもあるそうですが、内部を見学することが可能です。

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("La Caduta dei Giganti"。Perin Del Vaga画、1531‐33年。ヴィラ・デル・プリンチペ所蔵。パブリックドメイン<ウィキメディア・コモンズより引用>)

イタリア各地を転戦する中でルネサンスの輝きに魅せられたドーリアはこの屋敷の建設に当たり各地から実力のある芸術家たちを呼び寄せました。なかでも三大巨匠ラファエロの協働者であったペリン・デル・ヴァーガ(Perin Del Vaga)によるダイナミックな絵画はジェノバの芸術振興を刺激しました。

内政不安によりイタリア・ルネサンスから取り残されていたジェノバが、17世紀を迎えるころには「ロッリ制度の邸宅群」とともにヨーロッパ中の王侯貴族を魅了するほどの洗練された美しい街となるきっかけをもたらした点でも、アンドレア・ドーリアはジェノバの英雄と言えるかもしれません。

ヴィラ・デル・プリンチペ(Villa del Principe)

Piazza del Principe 4, 16126, Genova

入場料:€9.00 (※庭園は無料)

開館時間:毎日10:00~18:00 (※12/25、1/1、復活祭の祝日は休館)

※内部撮影不可

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