何もしてくれなかったけれど。

公開日 : 1999年09月09日
最終更新 :

「もう何をしたらいいのか、わからない。」日本からやってきたNGOの一人が嘆く。地震から3週間。ここではもうすぐ短い秋を経て、空気が急に冷えはじめ、雨が多くなる。泥と湿気と石炭ススでいっぱいの、あの冬がすぐそこまで迫っている。被災者達が欲しいものはただ一つ、「家」。日本のトルコ航空や空港に物資が山積みとなっても現地に行き渡ったわけではない。物資の受け入れに対するあまりにも高い輸送費や関税の結果、物資は集中したところにしか送られず、仕分け、配送を待つのみで被災者には届かない。義援金は私たちには届かないだろう、と被災者自身が政府への不信をあらわにする。日本でも集められた募金の多くはそのまま公共機関へ送られる。被災者が最も信じることのできないという政府と赤新月へ。そこからどう使われるのか?物資の配給は被災者自身が取りに行く形式がほとんどで、取りに行けないほどの弱者はますます弱っていくしかない。全壊し、テント村という限られた地域に集められた人々にさえ、サービスが行き渡ってないことが繰り返し、摘発されている。日本から多くのNGOがやってきたがそのほとんどは調査の名目で、それらを視察するだけだった。長期の援助の為には、現地での信頼できる受入先を探すのが第一というのは分かるが、トルコにおいてそんな受入先がそうそうあるわけもない。それぞれのNGOの情報交換や協力などもスポンサーの仲たがいなどが原因でなかなか実現しなかったり自由も効かない。通訳として同行したトルコ通の一人がため息をつく。「交渉先を見つけることの大切さは分かるけれども、あくまで本部の日本のやり方。受入先がなかなか見つからないなら、せめて炊き出しの手伝いでもしたかった。」あるNGOが帰る時、協力者であるトルコ人の一人が呼び止めた。「遠いトルコまで来てくれて、本当に本当に有難う。ヒッチ ビル シェイ ヤプマサ ビレ」彼は本当に純粋に感謝の意を表したのだが、その場にいたトルコ語の解る者だれもがその一言を訳さなかった。訳せなかった。「何もしてくれなかったにしても」。入れ替わり立代わり、現場を覗くだけだった日本人への、これが彼らの正直な評価なのだろう。一方、単身で現場に乗り込んで炊き出しを手伝っている日本人の大学生がいるらしい。言葉も通じない、けれど懸命に働くその姿に、現場のトルコ人も、「嫁さん紹介してやるから、ここに残れと言ってくれ」と視察に訪れた通訳に頼むという。日本式ではなく、トルコ式で何ができるかを考えることも必要かもしれない。援助の熱が冷めて来た今、日本へ帰っていった視察団の「ここで何をしたか」が、表に出てくる時期がくる。今度こそ「何もしなかった」とは言われない、視察の成果を待ちたい。

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