続 すべてはここから始まった?

公開日 : 2009年12月22日
最終更新 :
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平安京の表玄関であった羅城門は、東寺の南大門から九条通を西へ徒歩5分ほどの所にありました。鬼が出ると言われたり、また「羅生門」の名で小説や映画の舞台にもなったこの門は、一度倒壊した後に再建されましたが、天元3年(980年)の暴風によって再び倒壊した後は二度と再建されることはありませんでした。

今は通りから北に少し奥まった小さな公園にある石碑がその跡を示すだけで、かつてここに幅35.7メートル、高さ21メートル余りの壮大な門が立ち、そこから北の内裏の朱雀門まで長さおよそ4キロメートル、幅80メートルの大路(朱雀大路。現在、京都で最も広い五条通や堀川通よりもっと広かった)がドーンと通っていたことを想像するのは困難でした。

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また西寺はこの公園から更に西へ5分ほど行った所にありました。往時の境内の大部分が現在、市立唐橋小学校とその北の唐橋西寺公園になっています。この公園は東西100数十メートル、南北100メートルほどの地面がむき出しの運動場のような場所で、中央に土盛りをした小高い部分(土壇)があり、そこは講堂跡だそうです。羅城門跡と違い、広々とした場所に立つと、朱雀大路を挟んで、伽藍の配置も東寺と東西対称に建造されたという西寺の姿を十分に思い描くことができそうな場所でした。土壇の上の礎石は一見ほったらかしのような状態で、これが当時のものなら、随分粗末な扱いを受けているような気がします。

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天長元年(824年)、国中が旱魃に見舞われた時、天皇は守敏と空海に命じ、神泉苑において雨乞いの祈祷をさせ、その修法を競わせました。空海は雨を降らすことができましたが守敏の法は叶わず、結果は守敏の負けでした(という話が最も知られているようですが、守敏も雨を降らすことができたが、それは平安京にだけであって、空海は全国に3日間降らせ続けた。しかしその優劣の差は些細なものであって世間では引き分けとして、守敏をダメとはしなかった、というような話もあります『雍州府志』)。

そして次第に怪しげな話になりますが、雨乞いに敗れ、空海を妬んだ守敏はその後、羅城門を通りかかった空海に矢を射掛けます。ところがそこに僧が現われ、その矢を肩(背中?)に受けました。お陰で空海は難を逃れたのですが、実はこの僧の正体は地蔵菩薩で「矢取(矢負)地蔵」と呼ばれることになり、今、「羅城門遺址」の石碑がある公園の南にあるお堂に石の地蔵として祀ってあるそうです。この石地蔵はまだ見ていませんが、矢による?傷跡が残っているそうです。

☆本日の付録☆

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最近の急激な冷え込みは京都も例外ではなく、西寺公園の北側に鳩が集まって、近付いても体をモソモソ動かすだけで逃げもせず、寒くて飛んでらんないよ!とばかりに大勢で日向ぼっこをしていました。こんな光景を見たのは初めてです。また、この辺りにはあちこちに畑があります。作物はもちろん九条葱。そして近くのマンホールの蓋も観光案内に一役?

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