深い緑の中、日本の夜明け前を思う場所。

公開日 : 2015年09月09日
最終更新 :
筆者 : Akio
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小雨降る日の金戒光明寺。

金戒光明寺の塔頭寺院・西雲院で管理されている

会津藩士の墓地へと歩きました。

金戒光明寺から西雲院までは、長い石段を上り

墓地の中を進んで行きます。

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会津藩士の墓地には、日本の夜明け前に亡くなられた多くの方が眠られています。

会津藩と言いますと、金戒光明寺。

金戒光明寺が 大きな時代のうねりの中に 出て来たのは 幕末の頃でした。

江戸時代末期の文久2年(1862年)幕末の京都は 尊皇攘夷の風の中、

長州藩や土佐藩等の過激浪士が 天誅と称して過激な行為を繰り返していました。

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見かねた江戸幕府は、従来の京都所司代と京都町奉行に加え、新たに京都守護職を置きました。

役職には 会津藩主・松平容保(かたもり)が任命され約千名の藩士を率いて 

上洛し本陣としたのが金戒光明寺でした。

この時に、会津藩のお抱えとして新撰組も誕生しています。

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会津藩の着任当初は、統制のとれた動きで京の町の治安も回復しました。

下部組織の新撰組も、警察業務にあたり頑張っていました。

しかし時の流れは、幕府方になく情勢は悪化の一途を辿りました。

時は、池田屋事件・禁門の変を経て大政奉還のあと、

鳥羽伏見の戦いへと流れて行きました。

この戦いで、会津藩の多くの方が亡くなられています。

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会津藩士の墓地に来ました。

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西雲院で管理されている会津藩士の墓地では、文久2(1862)年から慶応3(1867)年の

5年間に亡くなられた237名と、鳥羽伏見で戦死した115名の慰霊碑など、352名が祀られています。

使役人の方や苗字のない方や女の人も、武士と同様に祀られています。

お墓に 慰霊の言葉がありました。

『幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、徳川幕府は ついに新しい職制を作り

京都の治安維持に当たらせることになった。

(中略)

会津藩の犠牲は大きく、藩士や仲間など戦死、戦病死する者が続出した。

その数は、文久二年から慶應三年までの六ヵ年に二百三十七霊をかぞえ、

鳥羽伏見の戦いの百十五霊を合祀した。・・・・・・以下 略 』

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お墓は、この日も綺麗に掃き清められていました。

左手に進むと、会津藩鳥羽伏見戦死者慰霊碑があります。

慰霊碑を囲むように飾られている写真は会津城の写真。

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日本の夜明け前、遥か遠く離れた京都の地で亡くなられた多くの魂に手向けられた 

故郷・会津城の写真。

深い緑の中、日本の夜明け前の時代を思いました。

金戒光明寺の塔頭寺院『西雲院』に眠る会津藩士のお墓でした。

《西雲院・会津藩士墓地》

〇京都市左京区黒谷町

〇金戒光明寺から徒歩10分。

筆者

京都特派員

Akio

京都は平安京の頃から、今に至るまで様々な歴史が残っている町。歴史と季節を訪ねながら京都特派員ブログを、綴って行ければと思います。

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