伊賀の国・松尾芭蕉④松尾芭蕉の謎と忍者説(続)

公開日 : 2017年12月14日
最終更新 :
筆者 : な*る

松尾芭蕉の謎と忍者説(続)

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松尾芭蕉は俳句界の巨匠。

俳諧でその名を知らぬものはいません。

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ここ伊賀が産んだ大スターの一人です。

そして、やはり伊賀と言えば、戦国~江戸時代から現在まで、忍者で有名な土地柄。

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松尾芭蕉=伊賀忍者説は、連想ゲームのようにごく自然の成り行きで成立したのかも知れません。

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一方で、松尾芭蕉のいくつかの謎から、この忍者説が生まれたのだと考えられています。

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その中でも代表的なものは・・・

①諸国を行き来する忍者が怪しまれない為に扮する職業には、自由に旅する俳諧人はふさわしい。

②自由な旅人・松尾芭蕉・・・その旅費にあたる膨大な資金の出所は?関所を通るには必ずいる通行手形をどうやって手に入れることが出来たのか?

③江戸時代、没落した百姓家の者が氏(姓名)を武士のように名乗っていること。

当時、伊賀忍者の上忍、中忍は氏(姓名)を名乗っていた。

④あの有名な(おくの細道)についての謎?!

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松尾芭蕉の上記の謎と彼が伊賀出身者であることが忍者説に結びついた可能性は大です。

今もささやかれているその謎を今回は(おくの細道)編で取り上げてみました。

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(おくの細道)・・・有名な松尾芭蕉の俳諧の紀行文。

この旅は元禄2年(1689年)春頃、弟子の河合曾良を伴って、江戸深川を出発、奥州、北陸道を辿った旅日記です。

全行程約600里(2400㎞)、日数約150日間で東北・北陸を巡って、美濃国・大垣が終点。

元禄4年(1691年)に江戸に戻りました。

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●単純計算では、600里(2400㎞)÷150日=16㎞/日。

雨の日など歩き続けることが困難な日もあったであろう道程。

また移動日ではない日もあります。

時には川を舟で下ることはあってもほとんどの道のりを歩き渡っています。

実際、歩き続けられる日数を考えると毎日16㎞~50㎞辺りを歩かないとこの旅は成り立ちません。

当時は人生50年と謳われた時代・・・決して若くはない45歳で江戸を出発した芭蕉翁。

その脚力たるや、常人を超えています。

もちろん、伊賀忍者はその忍術も含め、鍛え抜かれた凄い身体能力を持っていたとされています。

このことからも忍者説がささやかれています。

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●憧れてやまない(松島)の謎

松尾芭蕉が(松島)に深い憧憬があったのは有名な話です。

旅立つ前にも幾人かの親しい人に憧れの(松島)のことを手紙に書いて送っています。

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また(おくの細道)序文にも・・・松島の月先(まず)心にかかりて・・・の記述があります。

(松島の名月が何より心を捉えていて)住み慣れた家も人に譲り、旅の準備を始めています。

それ程までに憧れていた(松島)。

その(松島)を松尾芭蕉は何故か?ほぼ素通りしています。

(実際(おくの細道)では、松尾芭蕉の(松島)の俳句は作られてはいません。)

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では松尾芭蕉は憧れの地(松島)を放り出し、どこに向かったのでしょうか?

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諸説はいくつかあるには、あるのですが・・・。

例えば、(松島)が美しすぎて、あえて句を残さなかった。など・・・。

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ですが、やはりどうも腑に落ちない(おくの細道)の日程だったようです。

実は(おくの細道)の道中に秘密があります。

当時、江戸幕府が目をつけていたとみられる才能豊かなある武将の領地が含まれているのです。

その有力武将と領地の内偵調査が松尾芭蕉の任務だったのでは?と考えられています。

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江戸幕府が一目置く程の有能な人物。

それはかの独眼竜・伊達政宗でした。

才能豊かな野望を抱いた武将の領地である仙台藩・・・この視察が(おくの細道)なのだという説があります。

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確かに普通の忍者では、ばれてしまい出来ぬ(内偵)の仕事も、有名な俳人であるならば芸術の創作活動のための旅ということで可能です。

(この説では、関所を自由に行き来できる通行手形発行や豊富な旅資金も、幕府が用意したのではと考えられています。)

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(おくの細道)では、名景勝地だった芭蕉の憧れの地(松島)ではなく、瑞巌寺や港を事細かに見学して回ったことが随行した弟子の曾良の旅日記に記されています。

実はこの瑞巌寺や港は、当時の仙台藩の軍事要塞でもあったと言われています。

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また弟子の曾良も俳人のただの門下生のみならず、その経歴では江戸幕府との接触があっても不思議ではなかった人物のようです。

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この同行した弟子の書いた旅日記と芭蕉が記した(おくの細道)の記述違いを指摘される方もいます。

まず(おくの細道)出発日の記載も日にちが違い、他の異なる箇所を探すと50カ所以上100カ所近くあるとも言われています。

見解の相違も越えて、あまりにも違い過ぎる芭蕉翁と曾良のそれぞれの旅日記なのです。

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ここにも忍者説が浮上。

・芭蕉=忍者とカモフラージュに俳句の弟子同行説。

・芭蕉=忍者、弟子=忍者。二人で内偵調査説。

・芭蕉は有名な俳人。その隠れ蓑で同行した弟子=忍者、幕府に雇われていた説。

などなどなど・・・。

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芭蕉翁の俳句を練り込んだ旅紀行(おくの細道)と同行した弟子・曾良の旅日記。

・・・この出発から始まる多々の記述の相違・・・

どちらが忍者で?

どちらが隠れ蓑で?

あるいは双方なのか?

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今となれば想像の域を出ませんが、少なくとも片方の記述は忍者活動を覆い隠すために真実をすり替えて書いた可能性をはらんでいます。

(また片方の記述が何かしらの暗号を含んでいた可能性もあります。)

出発時点でさえ異なる日を記述。

同じ旅を行きながら、旅の最初から違う記述なのです。

上記の忍者説もあながち想像とばかりではないように思えます。

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俳諧の世界・巨匠の松尾芭蕉。

芭蕉翁と(おくの細道)にまつわる謎。

壮大な日本史にも通するような何か?(忍者説)も歴史のロマンの一つであると思います。

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イメージ通りの(伊賀を代表する伊賀忍者と松尾芭蕉がデザインされた市内の看板)

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次号へ。

筆者

三重特派員

な*る

三重県在中27年から見た三重の良さをお伝え出来たら幸いです。

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