秋篠寺は奈良時代最後の勅願寺

公開日 : 2018年02月01日
最終更新 :
筆者 : 大向 雅
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秋篠寺(あきしのでら)は、静かでこじんまりしており、とくに女性に人気が高いお寺です。古刹の気品が漂うこの門構えは、さすが奈良のお寺と思わせてくださいます。

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特にこの苔むした庭。信じられないことに、ここを見るだけなら拝観料は必要ないので散歩がてら境内を通り抜けていくこともできます。

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しかし、穏やかで静かな空間を持つことで知られる秋篠寺ですが、その創建にはかなり複雑な事情があることは、あまりご存じないない方も多いでしょう。

寺伝によりますと776年、奈良時代最後の第四十九代・光仁(こうにん)天皇の勅願により、薬師如来を本尊とする寺を造営とされています。

少し遡った宝亀元年(770年)に称徳(しょうとく)天皇が崩御(ほうぎょ)されました。女性であった称徳天皇は未婚のために子供がおられませんでしたが、後継ぎとなる皇太子を指名する前に崩御されてしまったので、後継者を巡り新たに政権争いが起こってしまうことになりました。

称徳天皇の皇統である、いわゆる天武天皇系の男子皇族が居られたにもかかわらず、左大臣・藤原永手(ながて)や藤原百川(ももかわ)らが画策し、天智天皇の孫にあたる白壁王(しらかべおう)を皇太子として擁立し、半ば強引に光仁天皇として即位させてしまい、聖武天皇の皇女であり白壁王の妻であった井上(いのえ)内親王は皇后に、息子の他戸(おさべ)親王が次の皇太子に立てられました。

これはこれで一件落着のように思えましたが、2年後どういうわけか天皇である夫を井上皇后が呪詛したとの嫌疑により廃后され、他戸親王もまた廃太子されて幽閉されてしまったのです。そして共に幽閉先で非業の死をとげられました。

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一連の事件は、かつて藤原不比等(ふひと)が光明皇后のときに画策したように、皇后を皇族ではなく藤原家から出すことで、外戚(がいせき)として絶対的な権力を手に入れるために藤原百川、藤原蔵下麻呂らが計画しといわれています。

しかし、悪いことをすれば必ず報いがあるもので、藤原蔵下麻呂が42歳で病没し、さらに翌年にも日照り、飢饉、異常な風雨、イナゴの大群、落雷、地震などの天変地異が相次ぎました。

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その後、朝廷は僧侶数百人に大般若経を唱えさせて大祓(おおはらえ)を試みましたが、天変地異はまったく衰えず、781年11月には天皇御自身が、そして12月には皇太子までもが病に臥せることになってしまいました。

いわれのない罪で廃后・廃太子された井上皇后と他戸皇太子の怨みによるものだと人々が騒いだ為、怨霊を恐れた天皇の勅願で秋篠寺が建立されたと伝わります。それが事実かどうかは定かではありませんが、続日本紀には780年に光仁天皇が秋篠寺に食封(じきふ)一百戸を施入したという記述がありますので、深い関係があったのは確かなようです。

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静かで癒されるお寺の秋篠寺ですが、奈良時代の終わりから平安時代の始まりという激動の中で創建されたことを知っておいて欲しいと思います。

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そして秋篠(あきしの)という名前は、三笠宮(みかさのみや)や高円宮(たかまどのみや)と同様、宮号にもなるほど奈良に古くから伝わる由緒ある名前だということもお忘れなく。

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