藤原鎌足を祀る談山神社
今回は談山神社(たんざんじんじゃ)を解説♪
神社に伝わる由緒によりますと、飛鳥時代に法興寺(ほうこうじ=現在の飛鳥寺)で行われた蹴鞠会で出会った中大兄皇子(なかのおおえのみこ=後の天智天皇)と中臣鎌子(なかとみのかまこ=後の藤原鎌足)が、藤の花の盛りの頃こちらの本殿の裏山に当たる多武峰(とうのみね)にて極秘の談合をされたとされている。
それは、蘇我稲目(そがのいなめ)以来、常に政治の中心で実権を握り、自分たちだけの利益の為に民を苦しめ、天皇や皇族もないがしろにするといった傍若無人の振る舞いを繰り返す蘇我氏(そがし)を排除し、新しい国造りをするための計画であり、645年に飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや)で起こった蘇我入鹿(そがのいるか)討伐の事件、乙巳の変へとつながっていきます。
二人の出会いから入鹿の首が飛んでいく生々しい場面までが描かれた絵巻が、神廟拝所の中に展示されていますので、ぜひご覧になってください。
この事件を発端に、いわゆる大化の改新が始まり、中央統一国家及び文治政治の完成という、日本国の歴史的偉業を成し遂げることになっていきます。
創建にまつわる縁起によると、669年に亡くなった鎌足公は最初、摂津国・阿威山(あいやま=現在の大阪府・高槻市)に埋葬されましたが、678年に唐から帰国した長男・定慧(じょうえ)と次男・不比等(ふひと)が、父の遺骨の一部を思い出の残る多武峰(とうのみね)の山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立し、妙楽寺(みょうらくじ)という寺院を創建したのがはじまりとのことです。その後701年に三丈四方の神殿を建て、鎌足公の像を安置した聖霊院が建立されました。
浄土院、食堂、経蔵、惣社、大温室、多宝塔、灌頂堂、五大堂、浄土堂などが立ち並ぶ大寺院に発展しましたが、鎌倉時代には曹洞宗や天台宗の僧を招き入れたことで、同じ藤原家の寺院とはいえ法相宗(ほっそうしゅう)の興福寺との争いが絶えず、堂塔伽藍はほとんど焼失してしまいました。
その後も生田の戦火の中をくぐり抜けてきましたが、ついに明治時代の初めに出された神仏分離令により古代からの伝わる談い山(かたらいやま)伝説にあやかり、談山神社と改称されて、別格官幣社に列することとなりました。
妙楽寺は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のあおりをうけて廃寺になってしまいましたが、建物は寺院風の建築をそのまま使用しているため、神社にしてはかなりお寺っぽい雰囲気を残しているのも談山神社ならではの見どころだと思います。
現在立っているこの塔は室町時代1532年の再建されたものですが、高さが17m屋根は檜皮(ひわだ)葺き、木造の十三重塔としては国内唯一のもので、とても貴重なものですし、何よりその姿が美しいです。
妙楽寺を建立するときに光る石が発見され、神が宿る結びの磐座として祀られたそうで、現在の東殿が恋神社として、男女はもちろん、人間関係の結び神として多くの参詣者が来られる恋愛成就のスポットとして人気があります。
そして春秋にも桜や紅葉が美しく、奈良県有数の人気のスポットですが、本当の意味で日本の歴史において、とても重要な地であるということも知ってからお越しいただければと思います。
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