一味和合の精神を守る西大寺
今回は真言律宗の総本山・西大寺(さいだいじ)を紹介いたします。
真言律宗というのはあまり聞き馴れない宗派かもしれませんが、弘法大師の真言密教における出家戒である「具足戒(ぐそくかい)」と、金剛乗の戒律である「三昧耶戒(さんまやかい)」を修学しつつも、鑑真和上によってもたらされた律宗精神の再興の意義も併せ持つ宗派であります。
創建の由緒は、奈良時代の764年に孝謙(こうけん)上皇が、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)によるクーデター(いわゆる恵美押勝「えみのおしかつ」の乱)平定を祈願して、四天王像の造立を発願されたことに始まります。ほどなく乱は鎮圧され、孝謙上皇は重祚(ちょうそ=一度位を退いた天子が再び位につくこと)されて第四十八代・称徳(しょうとく)天皇として即位されました。その翌年に常騰(じょうよう)という僧を初代別当として、四天王を祀る西大寺が建立されました。
「西大寺」という寺名は、称徳天皇の父である聖武(しょうむ)天皇が建てられた、大仏で有名な「東大寺」に対するもので、奈良時代には四王堂をはじめ、薬師金堂、弥勒金堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持っていたそうです。
その広さはおよそ27万坪ということなので1km四方の大きさ。ちょうど京都御所を取り囲む京都御苑と同じくらいのスケールになることになります。
しかしながら、平城京から長岡京へ、そして平安京へと遷都してからというもの、お寺は衰退の一途をたどることとなり、次第に荒廃していきました。
長い沈黙の末、西大寺の中興の祖となったのは鎌倉時代の僧・叡尊(えいそん)でした。1236年、35歳の時に初めて西大寺に入られ、その後一時海龍王寺に住されましたが、再び西大寺に戻り、90歳で没するまで50年以上にわたり、荒廃していた西大寺の復興に尽くされました。
また叡尊は、当時の日本仏教の腐敗・堕落した状況を憂い、僧侶の戒律の復興に努めるとともに、貧者、病者などの救済に奔走し、今日で言う社会福祉事業にも力を尽くされたという凄い方なのです。
1674年に再建された四王堂(しおうどう)は、もともとは孝謙上皇発願時の中心となるお堂で、御本尊として長谷寺式の十一面観音立像が祀られています。かなりの大きさの観音像は平安時代後期の作で、もともとは京都の法性寺におられたそうですが、酷い損傷を受けた像を叡尊が修復されたと伝わっています。現在も四天王像を祀っておられますが、邪鬼の部分のみが創建期のもので、像自体は鎌倉時代と室町時代の後補とのこと。
1808年頃に再建された本堂には西大寺の御本尊として清凉寺式の釈迦如来立像が祀られています。これは京都・清凉寺の御本尊、いわゆる生身の釈迦像の模刻で、像内にはまるで内臓のように、多数の納入品が納められていました。
愛染堂の愛染明王像は小像ながら、鎌倉時代に造られた日本の愛染明王像の代表作の1つ。秘仏となっており毎年10月 ~11月頃の特別公開のときだけの開扉となっています。
また、西大寺と言えば毎年1月、4月、10月に行われる大茶盛(おおちゃもり)が有名です。
これについてもけっこう歴史が古く、かつて叡尊が国家鎮護を祈願して、正月7日から一週間、修正会(しゅしょうえ)という行法を終えた後に、西大寺の鎮守社である八幡宮に茶を奉納し、お下がりの茶を参詣人にふるまったのが起源だそうで、地元では毎年ニュースで取り上げられています。
直径30センチ以上、重さ6~7キロの大茶碗にたてられたお抹茶を、参拝者が順々に回し飲みするというもので、一味和合(一つの味で和み合うことで信頼関係を築く)という精神からきているそうです。
とかく個というものを大切にしすぎて、コミュニケーションが不足しがちな今の世の中、こういうことも大切かもしれませんね。
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