柳生一族の菩提寺・芳徳寺

公開日 : 2019年03月07日
最終更新 :
筆者 : 大向 雅
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今回は、柳生町にある臨済宗大徳寺派の芳徳寺(ほうとくじ)を紹介いたします。

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江渡時代の1638年に、大和国・柳生藩主であった柳生宗矩(やぎゅうむねのり)が、「たくあん漬け」で有名な沢庵宗彭(たくあんそうほう)を開山として創建されました。

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この場所には、かつて柳生城があったそうで、宗矩が父の石舟斎宗厳の菩提を弔うために芳徳寺を建立したと伝わっています。その後、宗矩の四男である列堂義仙(れつどうぎせん)が第一世住持となり、200石が芳徳寺に寺領として分与されたそうです。

大きな火災によって創建時の伽藍はすべて灰となってしまい、その後に一度は再建されたものの、明治時代に入ってからは武士階級の崩壊、廃藩に加えて廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動などのために荒廃。残った山門や梵鐘なども売却されて、明治末期には無住の寺となってしまいました。

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しかし大正11年に、柳生家の末裔である柳生基夫氏が資金を寄贈され、現在の本堂が再建されました。そして柳生に心底惚れこんだ橋本定芳(はしもとさだよし)師が、柳生を終のすみかと決めて大正15年6月に赴任され、お寺の復興に尽力されました。元々有名な画家であった定芳師は、仏画を多く手掛けるようになってから「お経がわからねば本当の仏画は描けぬ」と仏門に入られたという男気のあるお方です。

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本堂にはご本尊の釈迦三尊像、沢庵和尚坐像、但馬守(たじまのかみ)宗矩坐像が安置されています。また、柳生氏に関する資料多数を収蔵しており、資料館が併設されています。

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本堂の裏手の山の中を少し進んでいくと特別な場所があります。

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そこには柳生一族のお墓がたくさん並んでいます。菩提寺なので当たり前なのですが、思いのほかたくさんの墓石があるのに驚かされます。柳生一族の始祖ともいえる家厳(いえよし)、石舟斎で有名な宗厳(むねよし)、大和柳生藩の初代藩主であった宗矩(むねのり)、そして十兵衛と呼ばれた三厳(みつよし)などなど、有名どころがズラリと並んでいるのは壮観です。

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また定芳師は「柳生に道場がないのは、あるべきところに毛がないのと同じで、まことに不自然至極。」とも唱えられ、柳生新陰流の普及にも努められました。そして長年の苦労の末に剣道と座禅の道場として正木坂道場が開設されたのが昭和38年のこと。この名前は三厳(みつよし=十兵衛)が、かつて1万3千人の門弟を錬成したという伝説の正木坂道場にあやかって命名されたそうです。もともと奈良地方裁判所として使用されていた、興福寺別当一乗院の建物を移築したもので、正面入口は京都所司代の玄関から移されたそうです。

柳生の剣は人を殺めるものではなく、活かす剣であるというのが奥義(深い)。日本の古代から受け継がれた精神が、ここでなら学べるのかも知れません。ぜひ一度お越しくださいませ。

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