レゼンデ特派員 新着記事
最終回の記事は帰国してからになってしまいました。
ちなみにブラジルからの引っ越し荷物は船便で5~6か月もかかるのですよ。ですから半年前に荷物の半分を日本に送っておきました。今はその荷物だけで生活しています。
荷造り時には「こんなの買ったなあ」というものが次々と…。ブラジルで手に入れたお気に入りを一部ご紹介しますね。
例えば鉄製の工具箱。
家の修理に来た業者のおじさんが持っていた工具箱がかっこよくて、同じものを探して購入。
ブラジルではよく売られているホーローのカップ。プリントされた柄のチープ感がかわいいでしょう。
背面が鏡になっている壁掛け式の小さな飾り棚。これは家で使えると思いますが、
ポストはどうでしょうね。使い道があるかな?
動物グッズ
分類してみると最も多いものは、動物モノかもしれません。
ボニート(旅行記事はこちら)で購入した斜め掛けバッグとリュック。
エコツアーの地だけあり、使われなくなった郵便屋さんの袋を再利用して作られています。
ブラジルは野鳥の宝庫。美しくて大きなインコやオウム、それからハチドリなんかもマンションや学校の庭で身近に見ることがきでき、鳥グッズはかなり集まりました。
庭でニワトリを飼っている人も多く、工芸品のモチーフによく使われます。
馬もとても身近な動物。
これは子供がまたがって遊ぶおもちゃ。
どこでも買える手軽なおみやげのマグネット。アマゾンのピンクイルカ(旅行記事はこちら)には特に思い入れがあります。
教会グッズ
自分はキリスト教徒ではないのに、キリスト教グッズが妙にかわいく思えて。ブラジルは世界最大のキリスト教国家。日本人が考える宗教というよりもっと身近にもっとカジュアルにキリスト教のモチーフが街にあふれています。
首にかけたときに胸側と背中側の両方にキリストやマリアの絵がくるお守りネックレス。
キリスト教にはたくさんの聖人がいますが、ノッサセニョーラはブラジル独自の聖人。青い衣を纏った褐色のマリアで、ブラジル人から絶大な人気。
ノッサセニョーラのバックル。
石膏のノッサセニョーラ。型抜きされた石膏に色を塗るという趣味を楽しむ人たちがいて、その材料屋さんで買いました。
キリスト教で「平安」「従順」「聖霊」「教会」などのシンボルとして使われる鳩。鳩モチーフの雑貨や飾りもよく見かけました。
聖書を置く台。古道具屋さんで壊れているものを激安入手。溶接ができるブラジル人の友達に修理してもらい、溶接個所が目立たないよう自分で塗装。我が家に聖書はないのでiPad置き、もしくはレシピ置きに。
ブラジルのハンドメイド
ブラジルで出会ったかわいいものたちの中には、ハンドメイドがたくさん含まれます。
これは布製の花モチーフをつなぎ合わせた襟飾り。
クロッシェ(鍵編み)は女性に人気の趣味でもあります。
家の前の歩道に椅子を出しておしゃべりしながら一日編んでいたり。話しかければ「売ったりはしてないわ~。全部自分の家で使ってるの。他のも見る?」などと気さくに応じてくれます。
「手作り好きに悪い人はいない。ハンドメイド好き同士はすぐに心が通じあえる」とは私の手芸の師の言葉ですが、その通り!と何度も実感しました。
ブラジルの手芸店
手芸店がこれまた面白い。
日本ではユザワヤやハンズなど、1軒でなんでも揃う大型店があって便利ですね。
しかしブラジルは小さな専門店形式。材料事に店が違います。布を買う店、リボンを買う店、金具を買う店…。しかも店内を自分で見た限りでは、なかなか欲しい材料は見つからず、「こういうものはありますか?」と聞くと店の人が出してくれます(もしくは他の店を紹介してくれます)。
他のお客さんを見ていると、自分で店内を探すことなど初めからせず、入店と同時に「○○が欲しい」と店員さんに話しかけ、相談に乗ってもらいながら選んでいます。そもそも買い物は「会話」から始まるのです。
トールペインティングの材料店に関しては日本より品揃え豊富で立派でした。
この店で買った材料で私はデコパージュ初挑戦。裁縫箱や小物入れを作りました。
楽しかった習い事。毛糸刺繍
ブラジル生活後半は習い事をする余裕が少しできました。通ったのはポルトガルから伝わった毛糸刺繍の教室。
ブラジルではタペストリー作り(Tapeçaria/タペサリア)と呼ばれています。刺繍糸よりもザクザク進みますし、なんといっても毛糸のポコポコ感が好き。
下絵が描かれた地布に毛糸を刺していくので、目を数える必要もなく、教室ではおしゃべりに花が咲きます。子供の学校のママ友達とは違って年齢層は幅広い。どちらかというとおばあちゃんたちがほとんど。それがとても心地良かったのです。
先に習い始めた日本人のお友達が紹介してくれた教室。先生と生徒さん達は毎週、娘を待っていた母親のように私達を迎えてくれました。つたないポルトガル語を一生懸命聞いてくれて、ゆっくり何度でも話してくれて。
下絵を描いてくれるのは先生のマルシア(Márcia)。マルシアは小学生の時に叔母さんから毛糸刺繍を教えてもらったそうで、47年間も作り続けています。
マルシアの作品の一つ。横幅が1.5mほどの大きなタペストリーです。教室では生徒たちが壁掛けのほか、クッションカバーやじゅうたんなど、思い思いの作品を作っています。
まだ帰国したばかりですが、この教室での時間がたまらなく懐かしく、愛おしく感じられます。ブラジル人が使うサウダージ(saudade)という言葉、こんな気持ちなのではないでしょうか。
日本ではほとんど知られていないブラジルの毛糸刺繍の魅力。そして今回一部をご紹介したブラジルのハンドメイトや手芸店について、一冊の本にまとめることができたら!それがこれからの私の楽しみです。
ブラジルはレゼンデ、名も知られていない町からの発信にご興味を寄せてくださった皆様、約2年間ありがとうございました。またいつか、誌面でお会いできることを願っています。
フリー編集者・小宮華寿子
最近は幼稚園の先生たちから「日本に帰っちゃダメよ」と声をかけられたり、友達からお別れのお茶会をしようと誘ってもらったり。ブラジルを離れることを急に実感し始めた日々です。
ブラジルにいる間にここでの育児、幼稚園や学校のことについて書いてみようと思いました。
ブラジルに来る前、私はここでの生活を超楽観的に考えていました。
家庭を持つ前は70リットルのザックを背負い、海外を旅して歩きました。貧乏旅行でしたから途中で仕事を見つけて働き、ボロアパートの賃貸契約も一人でやってきました。仕事で海外取材に行くこともありました。多かれ少なかれ海外ではトラブルがあり、それでもその都度なんとかやってきたからブラジルでも大丈夫だと思っていました。
しかし大きな違いは子供が一緒であること!
日本を出発する前に友人達から「ブラジル産の4人目を!」なんてからかわれてきましたが、待っていたのはとんでもなく余裕のない日々でした。
レゼンデには日本人学校もインターナショナルスクールもありません。子供達は現地の私立校に通いました。
学校のチラシには英語教育重視とうたっていたので、少なくとも保護者と教師間の意思疎通はできるだろうと思っていました。思っていたのに、入学してみれば校内で英語は全く通じませんでした。
救いだったのは3人の子供が同じ学校に通えたこと。ブラジルの私立校は1歳から入れる幼稚部があるところが多いのです。子供達も学校内で見かける兄弟の姿が心の支えになったと思います。
上の写真はフェスタデジュニーナという収穫祭のような大きなお祭り。学校でブラジルの伝統行事に触れられたのもすてきなことでした。
子供達のブラジルでの成長を少しご紹介しますね。大人にとっての2年と子供にとっての2年は随分違うものです。
末っ子次男 <2歳→4歳>
ブラジルに来たのは末の男児が2歳になったばかりの頃でした。魔の二歳、イヤイヤ全盛期をここブラジルで迎えたわけです。哺乳瓶持参で来たのですが、引っ越しのどさくさで哺乳瓶はそのまま卒業できました。
兄と姉も使ったアンパンマンのオマルは日本から送り、こちらでトイレトレーニング。無事にオムツも外れました。ブラジルではオムツやお尻ふきがとても高いんですよ。日本で一個100円以下で買えるお尻ふきは500円以上します。
オムツはパンツ型が売っていなくて、履き心地もきっとよくなかったのでしょう。2歳の彼は歩きながらズボンに手を入れてはオムツを勝手に外してしまい、道に投げつけるということが多々ありました。その度に拾いに行って…。すれ違うブラジル人にも笑われていました。
次男は言葉が遅く、ブラジルに来たときには少し単語が出るくらいでした。それが今ではポルトガル語交じりの日本語をペラペラペラペラ、一日中しゃべっています。
日本でも保育園にお世話になっていたのでお預かりには慣れていましたが、ブラジルでの最初の担任の先生は黒人の先生。そのうちに家では「黒いガブリエロと白いガブリエロがね~(ブラジルにはガブリエロという名前の男の子が多い)」などと幼稚園の報告をしてくれるようになりました。
もちろん差別意識はなく、彼にとっては黒人も白人も黄色人種も同じ。ポルトガル語も日本語も英語も区別なし。世界は一つ、ワンワールド!
上の写真は幼稚園に移動動物園が来たときのもの。園児が牧場主に仮装して参加したのですが、そういう「なりきり方」はブラジルの方が楽しいかなあ…。
真ん中の長女 <幼稚園年中→小学校1年生>
人一倍おっとりしていて甘えん坊。人見知り・場所見知りがひどかった長女。幼稚園に連れて行っても私にしがみついて離れず、泣いて泣いて…。
幼稚園にとっても私達が初めて受け入れる日本人であり、どう接していいか戸惑ったと思います。私としても長女の性格や日本でも集団生活をしてきたことなどを先生に伝えたかったのですが、言葉がわからず。
なんとか説明しようと幼稚園の片隅に残らせてもらい、その場で辞書を引いて、単語を並べた手紙のようなものを書きました。何時間もかかったのに、思うように伝えられないのをもどかしく思ったのを覚えています。
その結果、園は対応策を考えてくれました。登園時は2歳の弟のクラスに入り、30分ぐらい弟と一緒に過ごした頃に、年中のクラスの先生が迎えにくるというもの。2歳の弟を頼る姉だったのです。
数か月間そんな日々が続いた後、登園時から自分の教室に入れるようになりました。年中は1クラス20人程度で担任の先生とアシスタントの先生がいます。
アシスタントの先生は若いアルバイトさんなのですが、長女をとてもかわいがってくれました。日本人の子供が珍しく、また長女は体が小さかったこともあり、毎日抱っこしてもらっていました。
先生の言葉は分からなくても、先生からのたくさんの愛情を感じとったから、長女は「ここは安心できる場所」と認識したのだと思います。今では人見知りもすっかりなくなり、ブラジル人の友達の家に泊まりに行くなんてこともするようになりました。
上の写真は習い事のバレエ教室で。全員同じ学年なのに、体格差がすごいです。
幼稚園の保育時間中に園庭を借りて誕生日会もしました。日本では園が誕生月の子供のために誕生日会を開いてくれますが、ブラジルは個人ですべて用意。
長男 <2年生→4年生>
幼稚園で遊びながらポルトガル語を覚えた妹や弟とは違い、長男は努力してポルトガル語を習得しました。
初日からブラジル人の子供が受けている普通の授業に投入され、算数も理科も歴史も地理もポルトガル語で習うのです。それでもただの一度も「学校に行きたくない」という言葉は言いませんでした。
学校では毎日のように大量の宿題が出され、宿題をやらなければ連絡帳に親宛ての警告文が書かれます。気にするのはやめようと思っても、毎日毎日先生から注意され続けるのは精神的につらいものです。
ポルトガル語は学校の授業とは別にもレッスンを受けました。そこではアルファベットを書くこと、「おはよう」や「ありがとう」などの挨拶から習い始め、色の名前だったり、物の名前だったり、単語を覚えるところからスタートです。集中力がなく、要領の悪い長男。すぐに席を立ってフラフラしようとする息子に先生は根気強く教えてくれました。
もちろん自宅でも私と学習。「これ昨日も教えたよね」と、私はイライラしっぱなしでしたけど。
それでもポルトガル語超初級の長男が、ブラジル人と同じ宿題を同じ量こなすのは無理があって、毎日夜中までかかっても終わらず、途方にくれました。
「今は本人のポルトガル語の力量とかけ離れた学校の宿題をやるよりも、ポルトガル語の基礎から学ぶことに時間を割きたい」と学校側の窓口であった教頭先生に話したこともありました。
教頭先生からの返答は「宿題はやらなくてはいけない。テストも全科目で及第点をとらなければ留年。日本人だからといって特別扱いは一切しない」という厳しいもの。
学校には私達より先にアルゼンチンからの子供やフランスからの子供も入っていましたから、先生達は日本人も同じようなものだと思ったのでしょう。
悔しくなりましたよ。私達は決して怠けてなんていない。先生達には日本人の子供がポルトガル語を学ぶ難しさがわからない! スペイン語やフランス語のように単語も文法も似た言語圏とは違うんだ!と。
悔しくなったのには、たかだか2年生になったばかりの男児を夜遅くまで机にしばりつけることが正しいのかという思いもありました。こんなに大きな国に来て、何をチマチマやっているんだろうと。何ひとつ楽しんでいないと。
私は毎日長男の宿題に付き合って、長男が寝てからも彼の地理やら歴史やらの教科書の単語を調べて意味をメモしました。おおよそ何の勉強をしているかだけでも分かるように。それが終わったら、学校からのお知らせのプリントを翻訳します。
ポルトガル語は活用形が多く、変化形のまま辞書を引いても訳が出てきません。その単語の原形が想像できるようになるまで、辞書も思うように使えませんでした。
もともと落ち着きのない性格の長男にとって、1時間でさえ机に向かうことは苦痛。それでも「ポルトガル語が分かれば友達ができる。今がんばれば学校がずっと楽しくなる」という言葉かけの繰り返しでした。
それが半年経った時に、「なんとなく学校の授業がわかるようになった」と。
それからは雪だるま式に吸収していくようになり、8ヵ月経つころには一人で宿題が解け、それほど時間がかからなくなりました。ここで私との二人三脚の勉強は終了。家ではほとんど勉強しなくなりましたが、2年経つ現在は格段の差をつけられて私が置いていかれています。
暗中模索の当初、厳しい返答をされた教頭先生から長男は「最もブラジル人に近い日本人」だと称号を与えられ、あの時の悔しい気持ちも今ではいい思い出。
教頭先生は言葉の面だけでなく長男の性格も含めて言ったのだと思いますが、実際、長男の人懐っこい性格には随分助けられました。妹も弟も長男に倣い、ブラジルに慣れていけたのだと思います。
親友と呼び合う友達ができ、サッカーも習い、真っ黒に日焼けした長男は毎日生き生きとしています。
長男が学校で書いた詩のひとつに「どこの国の人でもいいんだ」と題名がつけられたものがありました。「日本人でもいい、ブラジル人でもいい、アルゼンチン人でもドイツ人でもフランス人でもいいんだ」という内容。
そんな大きなことを学んだのかと、ブラジルでの生活はものすごく意味があったと思えました。
ブログもあと少しなので実生活をご紹介してみました。楽ではありませんでしたが、それは日本にいてもどこにいても同じですよね。
長文になってしまいました。お付き合いありがとうございました。
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リオデジャネイロでは先週の日曜日と月曜日(2015年2月15・16日)の2日間に渡り、サンバパレードのコンテストが開催されました。世界一のカーニバルともいわれるリオのカーニバルとは主にこのコンテストを指します。
1日に6チームがパレードし、2日間で12チーム。この12チームはサンバ界最高峰のスペシャルグループ内のチームであり、スペシャルグループの下にはグループA、グループB、そしてC、D、Eまでカテゴリー分けされています。
2日間のコンテストでスペシャルグループ最下位となったチームはグループAの優勝チームと入れ替え。以下のカテゴリーでも同じことが行われる仕組みで、Jリーグと似ていますね。
スペシャルグループの誇り高き12チームの中でも、その年の上位6チームはカーニバルの翌週土曜日(2005年は2月21日)にもう一度パレードを行います。これがチャンピオンズパレード。
私はこのチャンピオンズパレードに行ってきました。場所はカーニバル専用に作られたサンボドロモという会場。中央をサンバパレードが通り、左右が観客用のスタンドになっている横長のスタジアムのようなところです。
パレードストリートの長さは850m。審査区間は650m。
本選ではないものの、会場はものすごい熱気!
すでに順位は決まっていますが、本選とまったく同じパレードを見せてくれます。
開始時間は夜9時。のはずが、やっぱり遅れて。
暑くてビールがすすんじゃいます。
ちょうど1時間遅れて開始の模様。各チームのパレードが始まる前に、カーニバル全体の王様が3人の美女(女王と姫2人)と登場。カーニバルをスタートさせます。カーニバルの王様には富の象徴とされる恰幅のいい男性が毎年選ばれるのだそう。
各チームの登場時には花火も上がります。
いよいよパレードが始まると観客は身を乗り出し、踊って歌ってノリノリ。座席など関係なくガンガン前に割り込んできます。会場はそれほどの興奮と熱狂に包まれていました。
各チームは毎年それぞれテーマを決めて、音楽、衣装、山車、装飾を作って1年間準備と練習を重ねてきます。これらド派手な山車だけでも1チームで8台から12台も用意。
チームの構成員は多いチームで4000人! だから1チームが通りすぎるのには80分近くもかかるのです。
1チームの持ち時間は65分~80分と決められていて、短くても長くても減点の対象。
コンテストの採点基準は他に装飾性、創造性、物語性、テーマ曲の歌詞と完成度、打楽器隊のクオリティーなど細かく分かれていて、実は奥が深い。
かつてはキリスト教の「謝肉祭」に大衆が街中を騒ぎながら行進したことから始まったサンバパレードですが、こうして進化を続け、人々を魅了してやまないのでしょうね。
4000人ものチームメンバーの全員が全員、踊りの名手かというとそんなこともなくて、ソロダンサーたちだけが際立って上手。ビキニの衣装で激しいステップを踏むパシスタ(Passista)と呼ばれる女性が目立ちます。
パシスタの中でも打楽器隊(バテリア)のすぐ前で演奏を奮い立たせるような力を与えるパシスタが花形で、バテリアの女王と呼ばれているそうです。
バイーア地方の民族衣装で踊る女性達は、長年チームに貢献してきた年配の女性。
チームの旗を持って踊る役には、チームで最も気品ある美女が選ばれるのだとか。
リオのカーニバルは歴史を経る間に、様々な伝統と秩序が生まれ、パレードの構成が作りあげられてきたのでしょうね。
一方で、力が抜けているところがあるのもやっぱりブラジル。
「その他大勢」的なダンサーは、振り付けが決められているようであっても、ピシッと揃っているわけでもなく、観客席に友人を発見するとハグしに行ってしまったり。
ブラジル人、自由です。
リアルなイルカの顔をした山車だなと思ったら、周りにいるダンサーがかぶっているイルカの顔が…
イワシみたいでちょっとまぬけだったり。
エンジントラブルでしょうか。人力で押している山車もちらほら。
1チームに80分もかかるので、後半の出番のチームは待ちくたびれて路上で横になり寝てしまっていたり。
さらに、終わったチームの出演者が夜店で飲み始めていたりするんです。
そんな姿が会場の周囲で見られるのがまた面白いところ。
さて、会場内では3チーム目が始まりました。するとこれまで全員総立ちだった観客の中には、座ったままの人も出てきます。お年を召した方から順にといった具合で。
そりゃ疲れますよね。真夜中ですから。
3チーム目は昨年の優勝チーム「ウニドス・ダ・チジューカ」。
ミュージカルを見ているかのようで惹き付けられました。
私はこの3チーム目が終わったところで会場を後に。深夜2:00。長距離タクシーに迎えを頼んでいました。充分に楽しんだ満足感もあり、体力的にも頃合いかなという時間でした。
そもそもチャンピオンズパレードを観に来る予定はなく、ホテルもとっていません。子供連れでは無理とあきらめていたリオのカーニバル。でも帰国が決まった今、リオのカーニバルを見ずに日本に帰るのは心残りで、前日になんとなくインターネットを見てしまいました。
するとまだチケットが売っていたんです。しかも20%引きで。
そのままインターネットでチケットを購入。しかしそれだけでは会場に入れなくて、本チケットをリオデジャネイロ市内の専用デスクで受け取る必要があります。
デスクの閉所時間がカーニバルの開演時間より随分早いのは厄介でした。そのため一人で長距離バスに乗り、チケットを受け取りに行くなどしてなんとか本チケットを入手。
でも日本からカーニバルを観にいらっしゃる方には、ブラジルに強い旅行会社にお願いするなどして、予めのチケット入手とホテル~会場間の送迎を予約しておくことをおすすめします!