呂比須ワグナーさん講演会ーーブラジルを知る会主催
壁にぶつかっても諦めないで、違う道を探して夢に向かおう――。
ブラジル出身で元日本代表サッカー選手、呂比須ワグナーさん(39歳)の講演会「自分の夢を信じて」(主催:ブラジルを知る会、共催:Conquest Recursos Humanos)が9月27日、サンパウロ市の国際交流基金・多目的ホールで開かれました。
呂比須さんは1969年、サンパウロ市から北へ400キロ、ミナス・ジェライス州境にあるフランカ市の出身。15歳で名門サンパウロFCに入団、16歳でプロデビュー、18歳の時に日本へ渡りました。
日産(横浜F・マリノス)、日立(柏レイソル)、本田技研、ベルマーレ平塚(湘南ベルマーレ)、名古屋グランパスエイト、FC東京、そして、2002年のアビスパ福岡を最後に現役を退きました。
その間、得点王4回、ベストイレブン4回、天皇杯優勝(1999年)のほか、97年に日本人へ帰化した際は日本代表に選ばれました。
引退後、ブラジルに帰国してジェトゥリオ・ヴァルガス大学(FGV)でスポーツビジネスを学び、パウリスタFCのアシスタント・コーチとして同チームをコッパ・ド・ブラジル優勝に導きました。
講演会で呂比須さんははじめに、8人兄弟の末っ子として生まれた幼少時代を語りました。
家庭は決して裕福ではなく、野山を駆けずり回って食べ物を探したり、10キロ、20キロの道のりを走って高級別荘地へ行き仕事を得ようとしたり。
10歳で靴工場に働き始めましたが、この時期に強靭な基礎体力を身につけたようです。
次に日本でのプレー生活について話しました。
ここで私が驚いたのは、日本人に帰化した理由が、「長男のため」ということ。
「息子は日本で生まれ、日本で育つ。日本人の息子のために自分も日本人になりたい」
子どものために、国籍をも変えてしまうなんて、果たして、私にできるのだろうかと考え込んでしまいました。
続いて、話はW杯フランス大会予選のエピソードへ向かいました。
イランとの第三代表決定戦直前に母親が亡くなり、ブラジルへ戻るかどうか、とても悩んだのですが、
「母は僕の中で生きている」
とプレーを続行したのです。
私は日本が本大会出場を決めた時、テレビ画面のなかで呂比須さんが泣きながら、天に向かって祈りを捧げているシーンをよく覚えています。
しかしながら、講演会は感動の涙ばかりではありません。
本大会の対ジャマイカ戦で呂比須さんがアシスト、中山雅史さんがW杯で日本人初のゴールを決めたことについて、
「あれは、本当はシュートのつもりだった。中山さんが途中で入って、美味しいところをもっていった」
と発言、会場から笑いをとっていました。
とても気さくで楽しい呂比須さん。
「日本サッカーに貢献したい。できれば、どこかのチームの監督に」
と語っていました。
彼なら、きっといつか、この夢を叶えるだろうと私は思いました。
(写真説明)
上:呂比須ワグナーさん講演会の横断幕
中:笑顔がさわやかな呂比須さん
下:来場者からのサイン攻めに快く応じる呂比須さん
今回、呂比須ワグナーさんの講演会を主催した「ブラジルを知る会」(清水裕美会長)。
1996年に「自分が暮らしている国=ブラジルをもっと知りたい」という気持ちから発足したとのこと。
主な活動は(1)勉強会(2)見学会(3)講演会。
現在、第12期会員を募集中で、要件は(1)女性(2)日本語の読み書きに支障がない(3)今後のブラジル滞在が1年以上。
10月14日午前10時からと11月7日午後1時からの2回、説明会を開催するそうです。
問い合わせはこちら:shirukai_br@yahoo.co.jp
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