No.53リール郊外ブーヴィーヌ:色鮮やかなステンドグラスで見る800年前の戦い

公開日 : 2014年12月09日
最終更新 :
筆者 : 冠 ゆき

 今年2014年が終わる前に、どうしても書きたかったことの一つが、ブーヴィーヌの戦いについてです。というのも、この1214年の戦いから数えて、丁度今年は800年となるからです。

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 ブーヴィーヌ、あまり耳慣れない名前かもしれません。

 実際今も小さな町です。1214年の戦い当時は、小さな集落でしかなかったことでしょう。フランスの北で一番大きなリール市の東15キロメートル、マルク川沿いに位置しています。

当時すでに500年以上の歴史を持っていたトゥルネ(現在はベルギーの町)を中心とするピカルディ語圏と、オランダ語圏の境に近い場所でもありました。

 ここで繰り広げられた戦いは、中世では最大規模のものの一つだったといわれています。立役者は複数いて、それぞれの利害関係、血縁関係が複雑に絡まってこの戦いに至りました。敢えて、一言で言えば、フランス王軍(と、その封建諸侯率いる軍)と、連合軍(イギリス王ジョン、神聖ローマ皇帝オットー四世、フランドル伯、オランダ勢など)の戦いでした。

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戦場での布陣図。青がフランス王軍。黄色が連合軍(拡大してご覧ください)

 おおよそ、フランス王軍は1万5千、連合軍は2万5千の兵であったといわれています。

 当時の戦法は、歩兵と騎馬によるもので、どのように布陣するかが勝敗を大きく左右したと考えられます。兵の合計数ではフランス王軍を凌いだ連合軍でしたが、フランス軍を追って戦場に着いた軍隊が、後続軍の到着を待たずして順に戦うという、言ってみれば、行き当たりばったりの攻撃に終始したこともあり、大敗を喫することとなりました。

 これにより、領土の奪回に失敗したイギリス王ジョンは、失地王という不名誉な呼ばれ方をするようになりました。神聖ローマ皇帝オットー四世の権威も著しく失墜しました。逆に、カペー朝フランスの力は、確固たるものとなりました。

 さて、その戦いから664年後の1878年。当時のブーヴィーヌ市長フェリックス・ドゥオーの発案により、1214年のブーヴィーヌの戦いを記念する教会が建てられることが決まりました。

11世紀のチャペルがあった丘で工事が始まったのが1880年のこと。6年の歳月を掛け建てられた聖ピエール教会は、建築家オーギュスト・ノルマンの手によるネオ・ゴシック様式のものです。

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 しかし、この教会を何より特徴付けているのは、幅3メートル、高さ8メートルのステンドグラスが21枚も使われていることです。

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青地にフランス王家の花の紋章の衣装を着ているのがフランス王

 このステンドグラスは、エマニュエル・シャンピヌゥールのアトリエで作られたもので、そのうち何枚かは、1889年パリの万国博覧会で展示された後、聖ピエール教会へと運ばれました。最後の一枚が完成したのは、1910年のことです。

 これらは、1214年のブーヴィーヌの戦いのエピソードを、ギヨーム・ル・ブルトンの記録を基に、時間軸に沿って描いたもので、まるで絵巻物のように、教会内を明るく照らしています。ちなみに、1981年には、歴史文化財の指定を受けました。

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出陣前に祈りを捧げるフランス王フィリップ・オーギュスト

《聖ピエール教会》

夏季:9時-18時、冬季:10時ー17時。

入場無料

《行き方》

リールから地下鉄4 Cantons行きに乗り、4 Cantons下車。

次に、バス204番に乗り、L'église de Bouvines下車。

 色鮮やかなガラスの絵は、生き生きと戦いの様子を描いており、一見の価値のあるものです。教会内には、フランス語のみですが、ステンドグラスの順序と一枚ずつの絵の説明のパンフレットが置かれています。

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戦いの中、一度は落馬したフィリップ王(左図)

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馬の蹄、剣の鳴る音や叫び声まで聞こえそうな躍動感のある図

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捕らえられるフランドル伯の形相もすさまじい

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移送される捕虜を前にした庶民のささやきまで捉えている

 また、好天の日には、ブーヴィーヌの史跡を回る散策路(約2キロメートル)も、魅力的です。

 ところで、前述のドゥオー市長は、教会完成後の1914年、迫り来る第一次世界大戦の影に憂いながらも、ブーヴィーヌの戦い700年記念の行事を開きました。

 それから100年経った今年7月には、再び800年祭が開かれました。この催しに際して、フェリックス・ドゥオーの曾孫であるブリューノ・ボンデュエル氏が言葉を寄せていたのが印象的です。二つの世界大戦では友軍であったフラマン人、ワロン人、イギリス人が、800年前には敵であったことに言及し、ドイツ人を「われらの兄弟」と呼ぶ文章の中で、2114年、一つとなったヨーロッパで、子孫たちが記念祭を催すことを願う内容です。

筆者

フランス特派員

冠 ゆき

1994年より海外生活。これでに訪れた国は約40ヵ国。フランスと世界のあれこれを切り取り日本に紹介しています。

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